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裏金作りの報酬

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09月11日(月)
故きを温めて新しきを知る (9)
おやつは自分のお金で買う
 
 生前質素にしていたお年寄りが亡くなって,残された財産を調べてみるとまだ10年や20年は遊んでても食べていけるほどあったりする。これは想像であるがありえない話ではない。金をピッタリ使い切って死んでいくというのは難しい。金というものは自分の金でも使うことは難しい。なかなか使えないのが真実だと思う。毎日ニュースに上っている県庁の裏金作成問題も側面がよく似ている。

 報道から判断すると,職員が一丸となって裏金を貯めた。接待に使うことができる立場の者は上司の指示で動くのであるから仕事のひとつとでも思っているだろう。しかし,ほかに使うために保管を任された者は困っただろう。想像ができる。金が手元にあっても,自由に使えない。やり場に困ってごみといっしょに出してしまったという者もいる。金というものは使うことは難しい。
 その使えない理由は周りにいる者が見ているからである。見ていても正当なものに使う分には気が楽であるが,分不相応なものに使えば周りはだっまっていない。「そんな金どこにあったの」と非難が来る。ましてみんなの手を煩わして作った金を一人で使うことは憚る。最初からうまくいく計画ではなかった。大勢の者の中には必ず善意に満ちた者がいる。そこから不正は伝わる。この罪をどう償っていくのだろう。県民はどんな顔で県庁を訪れたらいいのだろう。刑務所に面会に行くようなものである。今回の裏金問題の報酬は県民からこういう目で見られてること以外にない。

 公務員の根性は「仕事はすべて皆様のために行うサービスである」と思い込んでいる。ボランティアという精神は公務員以外の者にしか生まれない。サービスには報酬がつくがボランティアには報酬がつかない。したがってすべての仕事はサービスだから,会議をやってもサービス,だからサービスをすれば報酬をもらって当たり前となる。会議が延びれば弁当がでても当たり前という感覚も育つ。それが今回の最初の動機であっただろう。きっぱりやめて,この根性を消すためにあえて,会費を庁内で徴収する。そしてその会費で会議に必要ならば飲み物・おやつを買う。自分の金で自分の飲食代をまかなう。こうして意識改革をすることが必要である。
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インスペクター

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09月01日(金)
故きを温めて新しきを知る (8)
日本人にはできない会計監査
 
 防災の日に因んでラジオも専門家を呼んで力説が続いている(3時間)。「耐震強度偽装問題の起こったことの(皮肉にも)メリットは国民が建物の耐震補強に関心を持つようになった。」,「日本のやる検査は建築図面に対してであるが,地震のあったロサンゼルスでは建築物自身を100回以上検査する」どうしてこういう違いが起こるのだろうということが話題になっていた。

 町内で総会があると最後に会計監査に当たった役員が,会計簿を見せていただきましたところ,予算が正しく執行されていましたといって報告終わりとなる。これは建築図面の検査と同じである。領収書を検査するするだけで,出費ひとつずつを支払先まで足を運んで調べに行ったわけではない。これが普通であり,これ以上すると町内に住めなくなる。
 県庁で公金をみんなで不正にためて私的に使っていた。誰もがやりそうなことである。みんなでやれば恐くない。逆らう方が恐いわけである。逆らう係りが監査である。内部にいて逆らうと,その集団には居れなくなる。これが日本的に踏襲されてきた慣習である。仲良くやっていくには相手を検査してはいけないのである。昔は嫁をもらうに相手の家を調べつくした。だから婚姻後も良い関係は保たれなかった。今は干渉せず,かかわりをもたないことが無難であると考えるようになった。

 建築基準の検査機関,公認会計士などのインスペクターは検査の相手から報酬をもらって仕事をするしくみになっている。どんなに法律を整備しようとも,正しく業務が遂行されていくとは限らない。日本はいい国である。”信”というこの文字の重みがいたるところで光っている。印鑑登録という制度があっても,登録していない印鑑が本人を認証する力をもっている。ネットワーク上のパスワードに相当する。これは”信”が根底に流れているからだ。日本人のこの血を汚さないように後世に引き渡していかねばならない。
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薄い言葉でも濃い

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08月29日(火)
故きを温めて新しきを知る (7)
聞き流す言葉をよく考えてみると
 
 聞きなれた言葉には印象が残らないが,ビジネスの関係で,お客にかける言葉は,自分が一番大事にしていることを代弁している。言葉の少ない世間に住んでいると一言に極めて敏感になる。

 歯科医は診療台に乗った患者に対して「長いことお待たせしました。」「歯の調子はいかがでしょうか。」待合室のたまった客の数が最大の関心事である。そして専門の治療に切り替えて次の言葉が発せられる。また,歯科衛生士は患者の歯を明けても暮れても磨く。一人が終了すると「ここは汚れやすいのでしっかり磨いてください。」歯は磨くものであって汚れたまま放置するものではない。これが染み付いてしまっている。
 前にも書いたユースホステルのペアレントは,食事の始めに「本日のメニューは鳥のカレー粉漬け焼きです。すごーくおいしいので是非召し上がってください。」民宿風のユースホステルだから,何もかもしなくてはならない。最も大事にしている仕事は料理であろう。受け取る側は何の気無しに聞き流すだけであるが,少ない言葉から人の大事にしていることを汲みとることができる。

 コンビニでもスーパーでもホームセンターでもレジは唯一のコミュニケーションの場である。言葉によってその人が仕事を大事にしているか否かわかる。おつりの渡し方まで人によって違っている。年寄りにはこぼさないように下で受けながら渡してくれる。こちらも「ありがとう」といいながら反応を見て出てくる。すべてのことばやしぐさはその人の心を表す。話すことを仕事とするテレビにでる人や教壇に立つ人はもっと自己を研究しなくてはいけない。私なら恥ずかしいと思うことがあふれている。
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合掌造りを守る和田家

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08月09日(水)
故きを暖めて新しきを知る (6)
国の重要文化財の重みと日本人の義務
 重要文化財に指定されている白川郷の合掌村というものをこの目で見てきた。しかし,そこに住んで何年という人間でないから覗いただけでは何もわからないが,1軒の家を見学させていただいて感じたことを一言記録しておきたい。

 個人の生活居住空間と公開スペースとが隣り合わせになって,夏の暑いときも,冬の厳しいときも,こどもが病気のときも,ひとり静かに考えたいときも,これが毎日毎日延々と続いていくのである。展望台と称する丘の上から,毎日双眼鏡等で覗かれている。その家に生まれて,自分の家が文化財であることは,国に対する自己犠牲である。
 このような仕事は他にもある。全寮制の中等学校などの舎監の家族が生徒の寮と隣り合わせに住まうことがひとつの例である。すこし違うことは,定年がくれば,寮から離れて自宅を構えて悠々自適に暮らすことが可能である。重要文化財を守ることは終身制であるに違いない。

 これは続かないことである。しかし,博物館にしてしまえばどこにでもある○○村と同じになって,客は来なくなり,新しい企画を立てるたびに昔から流れる精神が消えてしまい,本も子もない。合掌村には世界のお客さんが訪れる。和田家のみならず,神田家,長瀬家をはじめ合掌造りの家を公開されてる方々のため,日本人は暖かいエールを送って永続を願うことが必要だとつくづく思った。
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情報は誰でも鵜呑みする

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08月07日(月)
故きを暖めて新しきを知る (5)
怪しいと判断する力はどうやってつけるのか
 今日(8月6日)は日曜日でたまたま見ていた番組は【クイズ日本語王】で「小学校教科書に載っている漢字”集める”の反対の漢字を書け」という問題に対して,ゲストの回答者が答えると,小学生が正解を紙に書き示して1問終わりという流れである。正解は”配”であった。その後,特に説明もなかった。

 私は集めるという言葉に反応せず,集という漢字に反応して考えていたから,配という漢字は思いもよらなかった。離合集散から”散”を想定していた。こっちは”集まる”の反対の漢字である。問題の出し方に問題がある。”集めるの反対の漢字”といのは整合性に欠ける。”集めるの反対語に使う漢字”なら”配”が正しいことはわかる。漢字の意味から本来”集”は鳥が木の上に集まっているという象形文字である。集めると配るは行動の上で反対であるが,集配業務として使う言葉であるから,集と配はそれぞれ部分を表す漢字である。グー,チョキ,パーのようなもので反対語にはなりえない。
 どちらが正しいという問題ではなく,メディアから流れてくる情報をわれわれは,鵜呑みにしてしまうおそれがあることを問題にしている。情報は疑ってかかれと教えられてはいるが,果たしてそこまでやれるか,その1例を上にあげたわけである。社会的な事象や人が話した言葉などは,真か偽を判断することは難しい。情報を流す側の責任において処理されなければならない。上の例では教科書に”集”の反対の意味の漢字は”配”であるなどとは書いてあるはずがない。解説者がきちんと説明すべきである。テレビ,新聞などマスメディアからの悪影響は多くの国民を巻き込む。

 鵜呑みの話をしようと思って用意したのがこのイラストである。鵜呑みというけれども鵜に限らず鳥はすべて呑み込むものである。まして,鵜は鵜飼のイメージから噛み砕いてはいけないのである。鵜匠の前で吐き出さなくてはならない。後で雑魚をもらうときは呑み込んでよいのである。このイラストは木の枝に止まって魚を呑み込もうとしている。鵜は鵜の目鷹の目といって水の中で全力で探し,見つけるや否や魚を呑み込んでしまう。鵜匠から魚をもらうときは鵜かごの中であって,こんな姿を見ることはない。これは2つ目の例であるが,鵜呑みをするなといってもそのことに対して知識がなければ押されてしまうのが世の常である。一人ひとりがあわてず慎重に対処するしかしようがない。
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夏休みは漱石だ

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07月29日(土)
故きを暖めて新しきを知る (4)
学校の役割
 
 学校に通っている限り大抵40日~60日の休みがある。この休みをどう使うか考えられる人は大学生以上でそれ未満の高校生以下は自分の思う通りにできない。親がどう導くかによって満足な夏にもなり,そうでもない夏にもなる。ところが親も自分の経験から一部の例外を除いて,子供を教育するカリキュラムを持っていない。旅行するにも計画書が必要なくらいだから,家族旅行以外のむつかしいことは学校に任せるしかない。

 近所に私立の高等学校がある。街なかの高校で,大規模校であるから,街で見かける高校生は大抵ここの学校の生徒である。夏休みになってもここの高校生を見ない日はない。早朝から行列を作って学校に登る。午後には三々五々帰っていく姿を見る。学校も大手を振ってセミナーとか補習とかを実施できる。昔は保護者に補習への参加許諾書を出させて,親の許可をもらい,その上で学校は補習を行なっていた。成果をあげるには頭を下げてやらねばならなかった。
 塾では中学生が一番のお得意様である。高校への合格は大学への合格よりむつかしい。400人の定員に対して420人の志願者があったというだけで大騒動である。大学入試では考えられないような数字に敏感である。倍率の問題ではないらしい。420人の成績が伯仲しているから誰が落ちても不思議でない。どこの高校でも力の差がないもの同士が受験するから,合格が保障されている受験生がほとんどいない。そんな事情で夏の塾は朝から夜まで忙しい。

 今の中高生は読書をすることがあっても現代ものに限られ,歴史教科書の文化の節にのる明治の作家の作品や英文学の翻訳ものなどは,ほとんど読むことはないと思われる。わたしが寮にいた頃は上級生が読書に没頭していた姿をよく見ていた。当時は漱石や阿部次郎は高校生の常識であった。書物というメディアからのみ新しい知識や情報がはいっていたころである。今はインターネットの世界であらゆる分野と書き手の活字にお目にかかれる。漱石は浜の真砂の一粒であろう。夏の休みくらい文豪ものを読んで語り伝えていって欲しい。
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男も女も世界が心

06月23日    
 学生時代,ドイツ語購読の時間だった。「男にとって世界は心であるが,女にとっては心が世界である。」という文に出会ったとき,含蓄の深い言葉だと思ったけれども,この年になってこれを説明しようとしても,当時とは違う思いがいたす。時代のせいでいろいろなことが分かってきて,文学の世界あるいはメルヘンの世界で通用していたことが現実と乖離していて,何となく認めたくなくなったようだ。

 男にとって世界が心であると思える男がいるだろうか。世界の指導者といわれる男がいたとしても,女に負けてしまう状況になってしまったのではないか。心が世界であるのは女に限らないのではないか。これでいいとも言える時代に生きてるのかもしれない。男も女も青壮年を見ていると変わらなくなっている。
 宇宙の誕生や進化の過程がだいぶ解明されてきた。とてつもない広い世界ととてつもない大きなエネルギーをもった得体の知れないのが宇宙だ。太陽が最大のだと思ったことも訂正され,金星は未来の地球の姿であることも証明されている。10億年先の話だそうだがそれまで地球はもつのかという疑問も湧いて来る。

 大きいとか小さいとかの話をしているが,宇宙より大きなものは人間の脳だと思う。40億個の細胞の数ではなくその機能の大きさだ。宇宙の果てを思い,細胞のなかを顕微鏡で覗く。心の目とかを用いて何でも見ることもできる。地獄耳も持っている。さまざまな匂いを嗅ぎわけ,多種多様の味を作り楽しむ。そして地球上の全生物の頂点に立ち,彼らの運命を背負って未来に進んでいく大きな責任を持っている。インターネットの世界も大きいが人間の能力は果てしない。
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