まさか!小説に昔の知人が登場しているとは


カテゴリ:温故知新(26) ブログナンバー:185 #小説
サブテーマ:植民地時代の朝鮮がわかる
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訪問者数:12月21日(土)87
 師走のある日,書店で林真理子氏の小説を探しながらページを捲っていたところ,皇室関係の系図が載っていました。その左端に一人の名前が目に入り,おやっ! ”宗武志” 忘れられないなまえです。本文の中でこのなまえを見つけました。登場人物として宗武志青年林真理子氏の掌の上で転がされていました。
 
 わたしの思いは全寮制の高校時代に飛びました。宗先生の特別講話の時間があったり,お散歩中に出会ったりした方です。その高校へ着任後,ご子息やご令嬢は生徒として入学してきました。
 
 文庫本『李王家の縁談』を即刻購入しました。小説の中での初出は「文芸春秋」2020年11月号に宗伯爵は登場します。そして,単行本,文庫本として出版されました。文庫本が出るまで私は知りませんでした。そして,私の知る登場人物,「対馬出身の宗伯爵が東京帝国大学を卒業する頃,皇族妃から縁談が降ってきて,朝鮮李王家の徳恵姫と結ばれました。そして彼は小説の終わりまで登場します。
 
 「この小説は李王家二代李王の縁談を中心とする
物語である。それに関連して同世代の姫たちの縁談
をまとめつつ最後が徳恵姫の登場となる」
 
 宗武志(そうたけゆき)は"ウィキペディア"にも取り上げられています。林真理子氏がこの小説を書くにあたって資料の提供を受けた一人は俳優故田中邦衛氏の実弟である田中俊平麗澤大学名誉教授です。
 
 小説の中に知人が出てくるとは「まさか」の経験です。長く生きていると,「まさか」がどこで待ち受けているか分かりません。
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元気と山登り

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     故きを温めて新しきを知る (27)
12月5日(火)
晴耕雨読を実行する難しさ
 10年ぶりに
自分の足で山に登ってみた。町のはずれにある山だから,軽装で行ける。400m余の高さから見下ろす景色はテレビや本の写真で見た景色と同じである。この山にもう一度来たくなるかどうかは山の作りや道の作りで決まるが,今回は道を間違える失敗によって次回成功させようという気持ちにさせてくれた。

 自分たちの登ってきた後の方から,大きな音が,三田明さんの歌が聞こえてきた。近づいてくると,西郷輝彦さんの歌に変わった。おはようございますと言いながら追い抜いていった足早の女性がCDプレーヤーを持っていた。展望台で再び会ったが,一人だから恐怖心を緩和する為であると言っていた。
 頂上から反対側に降りてみた。これから昼食をとろうとしていた10人のグループがいた。山を愛好する人たちの一団がいたことが,今回自分たちが山に来たことに高い価値を与えてくれたような気がした。定年退職して暇をどう使うかが課題である私たちであるから,山登りは価値ある選択のひとつであることを証明してくれたとも言える。それくらい山と縁遠くなっていたのである。

 この山で出会ったりすれ違った人たちのほとんどが一人登山であり,60歳過ぎの人ばかりであった。皆元気である。元気を維持する方法は家に閉じこもらない,晴耕雨読という言葉で表現されるこの4字熟語を座右の銘とすることが必要になったように思う。晴読を続けてきて体調を崩している。薬で回避し,また晴読を繰り返している。この日の登山はこれからの自分のポリシーに影響を与えてくれた。
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博物館の生き方

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     故きを温めて新しきを知る (26)  
11月26日(日)
負けるなWeb博物館
 Webサイトというのは超巨大な博物館といっても言い過ぎではない。しかも博物館が作ったデジタルミュージアムの民間版といえる。ある目的のため,きょうは仲間と一緒に博物館のサイトを調べてみた。データベースとして公開しているカテゴリーの数を数えてみた。アーカイブ白書2005に掲載されている調査結果の変化を見るためでもある。今回の調査対象の博物館・美術館は全国の中の有名な館に限られているがその傾向はつかむことができたと思える。

 このグラフは,「民芸品生活品を所蔵し,デジタル化して公開している博物館が全館の60%近くに上り,映像資料などは3%位の博物館にしかない」とみるようにしたものである。つまり博物館といえば、民芸品生活品など心のふるさとを思わせるものが多いことが実証されている。絵画彫刻などが多いのは、美術館に行くべきものが博物館にきてしまったことを示し,博物館と美術館の区分が明確でなくなってきているのはデジタル化の影響であろうか。美術館にも絵画以外のものが多数集まっていることもわかった。

 このグラフは博物館と名乗る館と美術館と名乗る館のどちらが表示に気を配っているかを比較したものである。閲覧者のニーズに合わせたり、特徴を発揮して仮想空間を見せたり,カメラを回転して撮影するなどの工夫状況の浸透度がわかる。外国人向けに英語表示や韓国語表示も見られる。最近の著作物に関する問題への未然防止のためにも但し書きが多くなってきている。

 調査した結果から、博物館・美術館のアーカイブの公開にかかわる現状の傾向について少し考察してみた。その結果「全国のお寺の数も多いが、博物館・美術館の数も多くなった。いかにアイデンティを主張するか、またサービスを提供するかの兆しが見えてきてはいる。たとえば ”デジタル図録”が作られ、CD化した絵画を用意したり、”モバイル対応”の博物館情報を提供したりしている。一方、”会員制など利用制限有り”や”画像は見られない”ものも多い。有料の入館を妨げては運営できないこともわかるが、画面で見られるからこそ行ってみようという心理の方が強いのではないか。サイトが大きすぎて管理が滞っている”リンクはずれ”もある。また,検索画面では、入力フォームのみで、カテゴリーや表示見本が示されていないので素人には見られないといった問題もあるが、問題化されていないのが問題である。」ということを添えておきたい。
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正直者は馬鹿をみない

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11月04日(土)
故きを温めて新しきを知る (25)
高校騒動で得た”公民”の知識
 高校騒動の中間始末の結果は「未履修科目2単位分の補習は50時間程度に軽減」,「2単位を超える分の補習は70時間とリポート提出」という救済策が決まった。将来この事実を忘れたときに見られるようにここに記録したのであるが,この策は時間数だけが軽減されたものではない。「修得しなくてもいい。授業にでるだけでいい」という意味を持ち,全高校生に「学校で未認定科目を作らないように試験勉強したのに,授業は出てるだけでいいんだ。単位をとる為に追試や再試を受けさせられたのは何だったのか。」という不信感を植えつけてしまった。気づかない生徒もいるだろうが。

 政府が一部の高校生と同じように「修得と履修の違いがわからない」のではなく,今度の通達の中でそのことを強調して誤解のない様に提示すべきであった。そして,もう一つ付け加えなくてはならないのは,伊吹文科相のアンフェアにならない策の件では「規定の科目を正規に学んだ者は損をしたのではなく,むしろ得をした。地歴の2科目を学んだからこそ,一方の科目の内容が他方の科目の内容の理解を助けてくれる。1科目だけでは理解が困難である。」,「これらの2科目は1年生か2年生で履修するのであるから,3年生での受験への時間的影響はない。」などのフォローを文科相の責任者がメディアに言わせなくてはならなかった。こういう大事なことが欠落していることが問題なのである。
 国民は立法とか行政とかの仕組を言葉の上で学んできたが,法案が現実にどんな機関を経由し,どう処理されていくかをこの案件の軌跡を辿ることによって,騒動を追いかけてきた我々や高校生が理解できたことがせめてもの収穫である。新聞報道から以下の表にまとめてみた。なるほどそういう名の機関や委員会が作られているのか!

かかわる機関 処 理 内 容
文部科学省 救済策の起案
政府 救済策案を決定
自民党文教制度調査会 救済策案の審議と同意
自民党文教部会
公明党文部科学部会
衆院教育基本法特別委員会 救済策案に対する各党の質疑
文部科学省 各教育委員会,都道府県知事,大学に通知
教育委員会 各学校に通知
    
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リセットが多すぎる

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11月02日(木)
故きを温めて新しきを知る (24)
人生はやり直しが利かぬ
 子供のときから「人生はやり直しが利かぬから・・・」と親から何度も言われて育ってきたひとが多いと思う。世のコメンテータはゲームのリセットボタンを押して生き返ることを批判の材料にされる。ここのところ,『県政再生推進本部』だの『教育再生会議』など再生が多い。安易に再生という言葉で不始末が片付けられ過ぎてるのではないか。

 安倍総理の負け組みになったひとが再挑戦する機会をもてる社会にするんだと公約のような言葉に賛同するコメンテータも多いが,この発想もリセットボタンに似ている。大半の児童生徒はまじめに勉強して,将来いい生活ができるようにと頑張っている。努力せず遊び放題では負け組みになるからである。努力の差で違いが生まれてくるのは誰でも体で感じ取っているほど明らかなことである。安倍総理の言われる負け組みと,努力しないで必然的に負け組みになった集団とどこが違うのかの区別を明確にしないと教育上不都合が起きる。
 こんなエピソードを何度も聞かされ心の糧にしてきた。【偉い先生が弟子たちと一緒にゴルフのプレーをしていた。先生の番になってボールをティーの上において,ドライバーでこれからうつ素振りをされていたら,ヘッドがボールに触れてティーからころげ落ちてしまった。先生はそのまま第2打を打とうとされたが,見ていた周りの者がお気の毒に思って「先生,もう一度やり直してください。」と申し出たが先生は「君ー,人生にはやり直しはないんだよ。これでいいんだよ。」とおっしゃってそのままプレーを続けられた。】これを聞いてる私たちはリセットボタンなどもってのほかである。

 教育再生会議もいいが,負け組みの再生もいいが,そうならないような根本の所をおさえ,やり直しは利かないからこそ,若いうちの努力が必要であることを押さえなおす方向で検討してもらいたい。学校でも努力もしないで試験を受け,形式的な再試験で合格点をもらってる生徒の行く末は,社会を甘く見て自分の都合で何とかなると思ってしまい,何ともならないことからニートなどが生まれてきているとも考えられる。正当に努力してきた人をもっと引き合いにだしてほめることも教育上大切である。
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SQLの就職先

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11月01日(水)
故きを温めて新しきを知る (23)
改変の最も必要な教科は数学である
 ソフト会社アシュトンテイトがdBASEⅡというソフトを発売して以来,更新を重ねdBASEⅤを最後にビジュアルdBASEに変わった。Windows3.1が発表されたからである。既に会社もボーランドに変わっていた。dBASEの歩みとともに私の仕事の一部であるプログラミング生活が続いていたが,MS-DOSから別れざるを得なくなったとき,dBASEを手放すことになった。その後はMS-Officeで対応していた。同時にプログラミングともお別れしたのである。

 データベースソフトといえばMSのAccessを使えばたいへん楽である。プログラミングの煩雑さから逃れられる。プログラミングの煩雑さから逃れられるからMSのAccessを使う。ところがデータベースを学びなおすために大学で講義をきき,SQLという言語でデータベースを作り,操作することに遭遇した。つまり,再び楽ではない場面に出会うことになった。SQLは初めてであるが,少しかじってみると以前のdBASEとあまり変わりがない。忘れてしまったdBASEの予約語を見返すのと同じ程度の努力でSQLがわかる。このとき思い出したことは情報教育の学者から直接「中高校生にプログラミングをやらせたい。」と聞いてたことだ。パソコンからBASICは消えてしまったが,ここにプログラミングが生き残っている。飛躍があるが数学の身近な応用分野を高校生に体験させられることだ。
 高校生の半分以上は理系で学ぶ数学の半分以下の時間しか数学を履修しない。ついてこない実態から教師がコースわけをしてしまったのである。もとを正せば,数学の学習内容が専門書の「解析学」「代数学」「幾何学」「確率統計学」などの入門書の域を脱していないからである。それらの学問はほとんどの人に縁がないものである。それなのに全高校生に必要であると騙しつつ履修させて,数学の解説をしてきた。学んでも使いみちがないものには意欲は沸かない。他の教科はそれなりに使いみちも実感できる。そして,やれば報われる。しかし,数学にはインセンティブが不足している。

 労働ではないものにインセンティブとはおかしいが,インセンティブの要素の報酬部分を学習内容に取り込む。情報機器を使ってめんどうなプログラミングを学ばせる。プログラミングの後にはその成果が個人に還元される。プログラミングはいかにも数学的である。問題解決型である。学習だから楽な方法を体験させることは避ける。10ピースくらいのジグソーパズルを10個やらせて,そのブロックを1つのピースとして進めるという考え方である。プログラムの実行結果が報酬部分にあたる。そのための基礎部分が従来の数学の基本部分であり,プログラミングが実用部分である。数学の基本を学ぶだけでも使いみちがあることを実感できる教科内容への新規参入がいま必要なのだ。
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高校世界史恐い将来

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10月27日(金)
故きを温めて新しきを知る (22)
先得さきどくのつけ踏み倒しが心配
 企画会社の経営を紹介しているNHKの番組”プロフェショナル”。社員は懸命にアイディアを提供し,寝ても覚めても頭の中はおもちゃの開発で染められている。その努力が結果として,社員の利益につながる。この仕事には賄賂や談合や法律の網の目をくぐるなどの道がない。世間の眼鏡にかなうかどうかで生き残るか廃業かである。

 一方,この2,3年あちこちで不祥事や法律違反が暴露し,謝罪会見で世間を騒がせている団体は,何を考え誰の利益を追いかけているのだろうか。今まで長い間来たことのない大きな台風が突然やってきてあらゆるものを洗い流した後のような現象である。公的機関の不祥事,鉄道会社や航空業界の内部問題,建築業界の不正利益追求,医学会の倫理問題,行政府の裏金作り,そして学校のいじめ,カリキュラム不正運用など本来の業務に真剣に取り組んでいればなんら問題にならないばかりか,尊敬さえされる団体である。架空請求とかを行う架空の団体ではない。それがなぜ隠さなければならないあるいは横道にそれて行くことに自己規制がかからないのだろうか。
 医師の倫理問題は賛否両論があって,患者や家族,妊婦にとって利益になるも,第三者がその行為を自己利益のため不正利用するからということで,医師の意志と法律の間に摩擦がおきている。それを強行に実行してしまってあと処理に手をこまぬいている。今回の学校の教師の倫理問題には賛成をもって許す者はいない。生徒や家族にとって利益になるも,将来の生徒や家族にとっては利益にならないので,文科省が基準を設けている。その基準を破っていたことをこれまで隠してきた。誰がこれを裁くことができるのだろう。

 何事もいずれわかることを愚かにも人間はやるものだ。みんなでやればたとえ不正でも恐くない。人間が公平に暮らせるように法律がもうけられ,それを守るのも取り締まるのも皆人間である。法律がもうけられる時点はでは人間の精神は神の心を宿し,法律に神の心を吹き込んでいた。古今の法律の歴史を調べるとわかる。例えば,ちという神獣が神社の参道に祀られているが,古代の裁判に用いた動物で,法という字は,裁判に破れて穢れたちを皮袋に入れて水に投じ去るさまを表している。法を守ることはその場では不利益を蒙るようでも終局において皆が公平に利益を得ることを保障するものである。今回何万人もの高校生が不正に卒業することになるだろうが,いい味を占めたこの体験が将来の日本を背負う立場になったとき,どんな判断を下して国民を引っ張っていくのかと思うとやり切れない。
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ミュージカル「ヨセフと色とりどりのコート」

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10月23日(月)
故きを温めて新しきを知る (21)
映画をおもしろく見る方法
 原作の旧約聖書「創世記」を読んでからこの映画をDVDで見た。というより,読まされ見せられたのであるが,そのわけは講習会の1日の講座の内容であるからだ。そして,映像表現とテキスト表現の違いを比較してレポートにまとめる課題がある。これを一晩で清書して他者にプレゼンせよというきつい課題である。それはともかくとして,この映画がミュージカルであることから,この映像が現実味を持っているかどうかは問題にせず,監督がどこまでも独自の基準による美やパワーを追求しようとする意図に注意を払って鑑賞し,そういう場面を見つけることにした。

 「ミュージカルを見る会場すなわち講堂の舞台が物語の進展によって,急遽,児童たちが物語の出演者の中に溶け込んで一体化したり,場面が牢獄の中へ吸い込まれていったりする。」この映像表現は映画の中で何度も使われることから,これがこの監督の素材の様式化とも言うのだろう。また「父親ヤコブのもとに兄弟全員が集まったとき,あろうはずのないカメラで記念写真を撮る場面を入れている。」―――他者の目にはどのように映るか気にしない。これも様式化の例だ。
 「ヨセフが穴に投げ込まれるが,穴の中は見せることができない。一工夫として,蛇を出して水のたまっていない草むらもどきの中を表現している。野獣が蛇に変わっているが食われる場面はないので何でもよいのである。」このシーンも現実にはありえないが様式的に凝っている部分のひとつである。

 形式や技術よりむしろ内容こそが最も重要であるする通常の映画に対してミュージカルは台詞にメロディーをつけ,振りを加えて意思表示するという手法はまさに表現の仕方の最も特徴的なところである。文字通りミュージカルのミュージカルたる所以である。この映画ではナレーターの歌もうまいがヨセフ役の男声も聞きほれる美声である。柔らかい声帯から発する音は日本人からは聞かれない独特の雰囲気をかもし出してくれた。今回一つの視点から映画を見たのであるが,別の観点,例えば「明と暗」の効果を担当するライティングの手法に目を向けて見るのも映画をおもしろく見る方法である。
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有事の頼み

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10月19日(木)
故きを温めて新しきを知る (20)  
古くからある永遠のテーマ
 奈良の妊婦さんの病死(脳内出血)とそれにかかわる医師たちの処置についてのニュース報道に違いがあると同時に,聞き手のわれわれははじめと終わりの状況しか知りえないので評価がまちまちになる。

 「担当医師が近県の病院に電話で依頼して,受け入れ病院を見つけた。」こういう報道の場合は,担当医師のご苦労が感じられる。問題はいざという時の予防措置がとっていなかった。つまり日ごろのお付き合いがなかった。そのため手遅れになった。われわれの日常でもよく起こることとして肝に銘じておかねばならない。
 「担当医師が県立医大病院に依頼して,そこの当直医師が受け入れ病院を見つけた。」こういう報道の場合は,担当医師は見つかるまでどう患者と向き合っていたかわからない。5時間も放置の状態では,対応に問題がある。その間,同僚の援軍を呼び出して,いろいろな症状を想定して検査もできたはずである。病院内の体制も不整備でこれからかかる患者の減少は免れない。

 医療ミスと判断ミスでは意味が違う。前者は不注意による過ちで,どのレベルでのミスかによって致命的かそうでないかにわかれる。後者は無知よるミスで手遅れになるなど,取り返しが付かない羽目に陥る。いずれも人間の世界では起こりうることで,生に対する死は誰にも与えられた宿命である。交通事故の被害者も同じくらい怒っていい。地震の被害者も怒っていい。何らかの原因で病気になった人も怒っていい。われわれの身の回りには危険がいっぱいある。それに遭遇しないで生きてきたひとが,長寿者として表彰されるのだ。
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排他的論理和

上段:投稿日 中段:カテゴリ 下段:サブテーマ ブログナンバー: 126
    
10月15日(日)
故きを温めて新しきを知る (19)  
友人関係から見る大学
 男子大学生の服装を見るとファッションを気にしているグループと特に気にしていないグループに分かれる。前者は黒い帽子と白い長袖の上に白黒の半袖チョッキ,腰に薄物の上着を巻き,黒いズボン,パンダかホルスタインのように白黒が交互に現れるように着こなしている。このスタイルで教室にだいぶ遅れて入ってくる。こういうファッション系は複数で行動していることが多い。あるきっかけで友人になり,互いに影響を受けて,同じような服装にしているのだろう。

 この学生たちの友人関係は行動をともにすることが目的で,授業は出席カードに署名するためにくるがよもやま話が尽きない。途中退場にも絶対服従という感がする。一人が立てば遅れまいと急いでついて行く。密着行動を旨としていて離れてはいけないのである。偶然が友人関係をつくったのであるが,この関係が育っていく過程で興味関心が同じ者同士なので結びきの強さは大きい。学習にプラスに働く関係同士なら同じ教室で席を隣にして座れる幸せは大きい。特に実習の授業など相談しながらできるからついていけなくなることはない。
 一方単独行動の学生もいる。友人を作るきっかけに恵まれなかったのであろう。昼食はコンビニ弁当を屋上へあがる階段の行き止まりへもっていってするという。だれもいないので人目を気にしないでゆっくり食べられる。しかし,たいていの学生は友人と行動を共にしてキャンパスライフを楽しんでいるようであるが,ともに時間を過ごすことがもっとも多い相手といつどこで友人になったか,入学して10ヶ月後に調査をしたことがある。「入学前から知っていた」者同士でずっと友人という発展性のない者が2割いるが,「入学式やオリエンテ-ションで座席が近かった」者同士が最も多く,4割を占める。その他「各種の共有した時間・場所」が4割である。

 この調査結果を半月後に見せて,ここから読み取れる事柄たとえば「出会いとは」,「大学生活とは」などを書かせてみた。友人作りは最初が肝心だと言う。自分から求めなければ友人は作りにくい。会っていて話をしないで別かれると再び話せないとも言う。出会いの不思議さと大切さを熱く語る者もいる。このような調査は10年前のものであるが,今の学生に書かせたら考え込んでしまい,友人のいないことをどう説明するか悩むであろうし,ファション系の学生は友人をどう評価しているのか見当がつかない。もしかしたら「出会いとは」,「大学生活とは」という問題と次元の違う世界で生きているのではないか。自分たち独自の空間を形成し,その一部を大学が占めている。教師と学生との集合は民主党のロゴマークのような排他的論理和を形成している。
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