それ出世の法においては五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、内心には他力の不思議をたもつべきよし、師資相承したてまつるところなり。
『改邪鈔』
個人的には、この「五戒」と「五常」の関係を考えてみたいところである。いうまでもなく、五戒とは仏教に於いて在家信者が護持すべき戒律のことで、五常とは儒教で説く正しい人の生き方であるといえる。ところが、覚如上人は内心には阿弥陀仏の他力による救いについて、それを保つべきことが、師資相承してきたという。
まず、全体の訳としてはこのような感じだろうが、今回引用したのは、この五戒と五常の関係である。転ずれば、出世間と世間という真俗二諦についてのことでもある。
そこで、五戒と五常について論じた教えとして良く知られているのは、中国の圭峰宗密『原人論』あたりだろうか?
故に仏、且く類世の五常の教〈天竺の世教、儀式殊なりと雖も、懲悪勧善に別無し。亦た仁義等の五常を離れず、徳行の修すべき例有り。此の国の歛手して挙し、吐番の散手して垂れる、皆な礼と為すなり〉もて、五戒〈不殺、是れ仁なり。不盗、是れ義なり。不邪淫、是れ礼なり。不妄語、是れ信なり。不飲●酒肉・神気清潔益、智に於いてなり〉を持せしめ、三途を免るることを得て、人道中に生ず。
『原人論』「斥偏浅第二」
こんな感じの教えがある。なお、宗密はこれに続く教えとして、十善戒の実践を挙げている。徐々に境涯が深まるといえるのだろう。それにしても、何故そういえるかといえば、まずは「勧善懲悪」という基本的な価値観に相違無く、そして、五常の仁義礼智信について、それぞれを五戒に配当出来ると思っているためである。
難じて云く 若し爾らば今世の災難は五常を破るに依らば、何ぞ必ずしも選澤流布の失と云はんや。
答て曰く 仏法未だ漢土に渡らざる前は黄帝等五常を以て国を治む。其の五常は仏法渡りて後、之を見れば即ち五戒なり。老子・孔子等も亦仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめん為に遣はす所の三聖なり。夏桀・殷紂・周幽等五常を破って国を亡ぼす。即ち五戒を破るに当るなり。亦人身を受けて国主と成るは、必ず五戒十善に依る。外典は浅近の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずと雖も、五戒十善を持ちて国王と成る。故に人五常を破ることあれば、上天変頻りに顕れ、下地妖間に侵す者なり。故に今世の変災も亦国中の上下万人、多分選澤集を信ずる故に、弥陀仏より外の他仏他経に於て拝信を至す者に於ては、面を背きて礼儀を至さざる言を吐ひて随喜心なし。故に国土人民に於て殊に礼儀を破り道俗禁戒を犯す。例せば阮藉を習ふ者は礼儀を亡ぼし、元嵩に随ふ者は仏法を破るがごとし。
日蓮聖人『災難興起由来』
日蓮聖人も、五常と五戒の関係性を認めておられ、老子や孔子は、仏教が来る前に、その教えが伝わる地ならしをしていたかのような評価になっているのが興味深い。そして、中国の帝王で、自らの国を滅ぼしてしまったような者は、五常を破ったためだが、それは五戒を破ったのと同じであるという。何故ならば、仏教の教えの中には、五戒・十善を守ることで国王になった、という話もあるためである。
そういえば、上記一節、良く見てみると、法然上人『選択本願念仏集』に対する評価が出ているな。しかも、それを信じたから問題があったという書きぶりである。日蓮聖人、確かに法然上人への批判を強く持っているので、この辺はなるほど、というべきか。そして、ついでにいうと、『選択集』への言及は、この文献のみのようだが、たまたまこれを書く前にでも見ることがあったのだろうか。良く分からない。
どちらにしても、仏法と世法との関わりを、五戒と五常でもって考えるというのは、中国以東、或る意味で常套句的ではある。他にも調べていくと多くの典拠がありそうだ。もちろん、仏教を重視するか?儒教を重視するか?という違いがあって、上記は仏教者だったので、この通りだったが、逆の事例もありそうだ・・・
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