つらつら日暮らし

マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・6

ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載6回目である。

6 教皇は、神によって罪が赦されたと宣言すること、あるいはそれを承認すること以外には、どのような罪も赦すことはできない。また、自らに委ねられている責務に関する訴訟事項を赦すこと以外には(それゆえ、このような事項が見過ごされるなら、罪はなお残ることになる)、他のどのような罪も赦すことはできない。
    下掲同著・14頁


この1条には訳者の深井氏による註記が2つ付いているのだが、前者は訳語の問題なので置いておくとして、後者を見てみると、この時代のルターは、まだ教皇自身の責務や、教会制度については認めていたとされている。確かに、1520年にルターが著した『キリスト者の自由について』(下掲同著所収)を見てみると、「全ての人々が祭司である」と認めながら、そのような時に「教会における祭司と信徒の区別はどうなるのか?」と問いを立て、その判断の根拠を『聖書』に委ねている。

その結果、全ての人々が正しく神・キリストへの信仰を持つことが肝心であると主張し、教皇の権威などを否定したのであった。これは、『九十五箇条の提題』からわずか3年後のことである。

そして、このような後の考えを参照するまでもなく、「罪」に対する態度としては、教皇の力は無力なのである。いわば、神に赦しを乞う1人の人間として、その仲介を可能な程度の役職だったともいえるだろう。

【参考文献】
・マルティン・ルター著/深井智朗訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』(講談社学術文庫、2017年)

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