なお、この花山院長親だが、南禅寺・聖徒明鱗禅師の法嗣とされ(『延宝伝灯録』巻15参照)、子晋明魏という道号・僧諱で知られ、また耕雲という号もあった。それで、『両聖記』には1394年に成立したという説もあるが、『群書類従』所収本からは、詳しいことは分からない。とはいえ、文中に「応永元年」という表記が見えるので、少なくとも同年(西暦では1394年)以降であることは疑いない。よって、「渡宋天神」の伝承として最古の一本となるようだ。
少し長いので、要所要所を引用してみたい。
両聖記 右大将長親
昔、無準和尚、径山に住し給ける時、北野天満天神ある夜半ばかりに、日本の菅丞相と名のりて受衣しましましけるよし申伝へたり。此事、やまともろこしの伝記にかきのせぬ事なるを、をろかなる身のあさき心てには、さること有べしとさだめむ事はばかりおほし。又、このことはり、すべて有べからずといはむ事、その咎をまねきぬべし。聖神仙昇の後より、無準の在世の頃までを計ふるに、三ももちあまりの星霜をかさねたり。またから国、わが日の本のさかひをことにせること、はるかなる八重のしほぢをへだてて、雲の濤煙の浪いく千里と云ことをしらず。またかしこにかたちをあらはし給けむこと、凡情にておしはからば、かたかたにつけてうたがひありぬべき事ぞかし。しかはあれど、一心法界に遠近のへだてなし、千万劫の転変又即今のうちをいでず、いはむや聖神は観自在の霊応にましませば、本覚の光をやはらげて、しばらく閻浮の塵に交りたまへり。普門示現の応化いづくか円通の境界にあらざらむ。不生不滅のうちに、又、古往今来の別有べからず。たとひ慥なる記文なくとも、しゐてうたがひをなすべからざることにや。
塙保己一『群書類従』第一輯・巻19「神祇部」
まずは、以上の部分を見てみよう。これで、全体の1/4くらいである。上記内容だが、中国臨済宗の無準師範禅師(1178~1249)の下に、日本から北野天満天神が参じた話について、この話を真実のものだと信じるように説いているのである。なお、「聖神仙昇」とは、日本で菅丞相(菅原道真公)が現世での生を終え、天の世界に昇ったことを指している。そして、それから300年後(三ももちあまりの星霜)に無準禅師に参じたことをいう。
しかも、天神が無準禅師に参じた様子について、観自在菩薩の応化であるため、円通の境界として、時間・空間の隔てが無化されると述べている。よって、「たとひ慥なる記文なくとも、しゐてうたがひをなすべからざることにや」と注意喚起しているのである。
ここに呉竹のふしみの里とかや、代々の御門おほむくらゐをさらせ給て、紫の雲の上をみどりの蘿の洞に住かへさせまします事、たびかさなりむ。ちか頃又宇多花山のふかき御跡にもこえて、少林のおく曹渓の源まで深くたづねきはめさせ給ふ。ふた代の御事のかたじめなさは、申もらさなり。かの仙洞にひきはなれて、一宇をたてられてうつりましましし所を蔵光庵をなづけて、光かくれさせ給し後より、御門徒の尊宿、いにしへのみことのりをたがへず、まもりおこなひ給めり。今の幽林主翁すなはち其人になむおはす。
こちらは、「蔵光庵」という庵を作った経緯を説明している。元々は伏見区御香宮に所在していたが、安土桃山時代には、蔵光庵自体は別地に移され、元々の場所には桃山天満宮が建てられている。しかし、本来はいわゆる「渡宋天神」話の中心地として、大いに隆盛したという。つまりは、神仏習合の一形態だったのである。
明徳の比、同伴の僧月渓の夢におほきなる島の中に、一の壇あり、壇の上に宝塔あり、塔に法華の妙典を安置す、そのかたはらに峩冠盛服して、絵にかける唐人のごとくなる貴人立給へり。誰ならんとおもふところに、虚空に声ありて、是なむ北野の天満大自在天神におはしますといふとみえけり。
こちらは明徳のころとあるので、1390~94年の時代である。蔵光庵にいた月渓和尚の夢に、大きな島とその島にある壇が見え、そこに貴人が立っていたという。誰かと思っていたら、虚空から声が聞こえ、北野大自在天神だと述べたという。
天慶の昔、道賢といふ僧、行力勇猛の功により、冥助をかりて芳野の蔵王権現ならびに北野の天満天神にまみえたてまつりけり。時に天神、道賢をいざなひて白馬にのせ給て、飛がごとくに数百里を過て、わが御すみか所をみせさせ給ける事、古書にくはしく載たり、其所の荘厳の有様の夢に露かはる事なし。
今度は一転して、天慶とあるから、938~947年の時代である。その時に僧・道賢がやはり北野天満天神に相見した話を載せている。これは、「古書」を典拠にしているというが、当方で確認したのは虎関師錬禅師『元亨釈書』巻18「神仙五」に収録される「北野天満大自在天神」章で、確かに「天慶四年八月、沙門道賢有り」として、先に採り上げた『法華経』を安置した宝塔の話などが出ている。
其後応永元年の秋、幽月同門の僧忠菴のかたより天神、無準に受衣し給ける御姿を図したる形象とて、幽林に奉れる。月渓これをみるに夢に見奉りし儀貌衣冠にたがふことなし。いと不思議なることになん、幽林感歎のあまりつらつら是を思ひめぐらされけるは、此庵もとより宝塔をたてて、中に法華を安じて本尊とす。道賢はうつつに拝し、月渓は夢にみる。塔婆法華これをなし、又もとめざるに彼真影ここに降臨しまします。これひとへに祖宗をまもり法道をたすけましますべき神慮にや。縁し奉りて、朝夕の焼香供養、懇誡をつくされけり。かの仙洞につかふまつる人々、此事どもを伝ききて、和歌を詠じて法楽しけるに、近辺閑居の僧ども、をのをの志をのべてあつめて一軸をなせり。劣者幽林にまみえ奉る事、日浅しといへども、年を忘るまじはり、蓋をかたぶけてふかきがごとし、歌をゑいじたまふ、しかのみならず、事のおこりを一端しるしつけむやとの厳命のがれがたきによりて、蕪詞をつらねてやむことをえず。
そして、時代は応永元年(1394)の秋の話となる。ここから、本文書成立が1394年だといわれる理由が理解出来る。それで、幽月と同門だった忠菴という僧侶から、天神が無準禅師より袈裟を頂戴した姿を絵にして、幽林に奉ったという。その絵を月渓が見て、自分が夢で見た天神の姿と全く同じであったことに驚いたという。つまり、道賢はうつつ(現)に於いて見たものを、月渓は夢で見たのだが、現実と夢との整合性が取れているので、仙洞御所に仕えていた者達も法楽を行ったという。そして、その中にいたであろう右大将長親卿も、この一事を文章にするようにという厳命(将軍であれば足利義持[この年に将軍職就位]で、天皇であれば後小松天皇か)が下ったので、この『両聖記』を書いたという。
抑、天下のことはり有無のふたつをいでず、有と云よりみれば、古ありとあり、我あり人あり、万象歴然として目前をはなるる事なし、無といふにつきてみれば、仏なし衆生なし、天地日月山川草木みな是幻化なり。九龍百家四韋五明、色々様々にかきをき言伝へたる事、ただ名字のみ有て実体なし、はたして有こととやすべき、無事とやいはむ、なんぞただ此両聖相見の事につきて、はじめて真偽の蹤迹を論ぜむ、無準いかなる人ぞ、聖神いづくにはいます、おなじとやいはむ、ことなりとやいはむ、もし有無の落処をしらば、すなはち両聖の真体を知べし、若しからずば祖師をそしり、神明を慢ずる咎、いかでかこれをまぬかるべきにや、此事をきかむ人ここにおきて、旨を得ば、聖神伝衣の霊意に冥合して、又は幽林帰敬の本意に辜簡する事なるべしといふごとしかり
神よなを法をまもりて伝へけり三の衣の恨み残すな
ねがふべき仏の道もすつる身をうき世のみとや人のみるらん
知足
たえずわが頼みをかくるしるしにやここに北野の影うつすらむ
神もなを天満光さしそへて心の月よくもりあらすな
以上が結末部分であるが、天下の道理について、有無の2つを出ないとしつつ、その有無の中でこの一事を捉えるよう促している。それから、個人的には『両聖記』の「両聖」が何を意味するのかを考えていたが、最後まで読むと、無準師範禅師と天神だったことが理解出来る。結局は、聖神受衣の一事を、どのように把握すべきかを、有無の両端に依拠せずに求めることを説いているのである。
ということで、今日は天神忌であるから、その御霊の供養のために、上記の如き一文を奉った。南無大自在天神、合掌。
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