昔、栂尾明恵上人が、自ら此の遺教経を書写されて、其の奥に、孝子伝の張敷の故事を附記し、以て学徒を策励された話は有名であるが……〈以下略〉
高島米峰『遺教経講話』(丙午出版社・1921年)1頁
高島米峰(1875~1949)といえば、新仏教運動の推進者として知られた人であるが、その講演録や著作も多く、今回紹介するのもそのような1冊である。
それで、何故紹介する気になったかといえば、高島が明恵上人の行いを賞しつつ、「有名だ」としているのだが、当方はこの件を知らなかった。そのため、明恵上人の振る舞いについて学んでみたいと思ったのである。
さて、この一節については、明恵上人が開いた高山寺が所蔵している『遺教経』の写本の識語として示されている。そして、この「孝子伝」については、確かに引用が見られる。ただ、当方としてはその箇所よりも、高島が指摘する「学徒を索励」の部分が気になるので、それを見ておきたい。すると、上人が『遺教経』に抱く思いを見ることが可能だったので、それを引用してみたい。
此の経、成弁の生年十八の歳、独り西山の閑室に籠居する間、数部の古経中より此の経を得たり。滅後二千の末に在りて、始めて遺教妙典の題を聞き、悲喜相交し、感涙押え難し。其の後、恒時に之を誦す。
訓読は当方
簡単に読んでみると、明恵上人がまだ成弁という名前だった18歳の頃、西山の部屋で独りいた時に、数部の古い経本の中から、『遺教経』を得たという。そして、初めてその題名(おそらくは詳しい『仏垂般涅槃略説教誡経』のこと)を聞いて、悲しさと喜びが相交じり、感涙が抑えられなかったという。その後に、この本は常に読むようになったという。
長さからいっても、日常的な読誦に耐え得るのが、『遺教経』の良いところであるし、何と言っても、戒(波羅提木叉)への重視は、この経典の特長である。そして、明恵上人に喜びを感じさせたのは、この経典に出会ったことそれ自体であろうが、悲しみとは何であろうか?おそらくは、題名の「仏垂般涅槃」である。これは、「仏、般涅槃に垂(なんな)んとして」とある通り、その臨終の様子を示す言葉なのである。
今回は、高島米峰の教えに導かれる形で、明恵上人の『遺教経』への想いを知るきっかけとなった。個人的に、彼らが説いた新仏教運動に対し、当方は批判的ではあるが、この点については、高島に例を申し上げねばなるまい。
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