今、学家を見るに、力めて坐しても不悟の者は、病、依計に由り、情、偏邪に附き、迷て正因に背き、枉て止作に随う。不悟の失、其れ斯に在るなり。
若し也、一念を斂澄して、密に無生に契は、智鑑廓然として、心華頓に発し、無辺の計執、直下に消磨し、積劫の不明、一時に豁現す。忘を忽ちに記するが如く、病の頓に癒えるが如し。
内に歓喜の心を生じ、自知、当に作仏すべし。即知、自心の外に別仏無きことを。然る後に悟に順いて、増修し修に因て、而も証す。証悟の源、是の三別無し、名づけて一解一行三昧と為し、亦た無功用の道と云う。
『緇門警訓』巻上
今回は、仏心本才禅師『坐禅儀』を3つに分けてみたので、中間の部分である。まず、本才禅師は、当時の学人に対して苦言を呈している。具体的には、努力して坐禅しても悟らない者がいたという。その原因は、自らの計らいに依拠し、心は偏っているため、迷って正しく仏道を学ぶことが出来ず、曲がった坐禅になっているという。
しかし、一念を収斂させ、澄むことにより、雑念が無生の状態になれば、智慧がカラリとしていて、心に悟りの華が開き、辺りなきとらわれが直ちに消え失せ、これまでに積み重ねてきた不明は、一時に開かれるという。その様は、忘れたことを直ちに思い出し、病が直ちに癒えるようなものだという。
その結果、内には歓喜の心が生じるが、それを知って、まさに仏になろうとすべきであるという。そこで、自分自身の心のあり方を知れば、自心の他に仏が無いことを知り、その悟りに順って修行し、その修行によって、更に悟りを明らかにすべきだという。
証悟の源とは、「是三無差別」だという。つまり、仏と心と衆生とが一体であることを意味し、それを、「一解一行三昧」だとし、更には「無功用の道」ともいう。
本来、仏である自己自身をよく悟ることを求めていることは明らかである。この文章の末尾は、明日の記事で確認したい。
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