ところで、同じ語呂合わせといえば、「参究」だってそうである。「参究」とは、以下のような意味である。
参究とは、即ち此の一箇の話頭に参ずるなり。話頭に参ずるに、外に疑情を起こさず。所謂、小疑小悟・大疑大悟・不疑不悟なり。疑は、即ち参なり。
『百丈清規証義記』巻8
まぁ、だいたいこんな感じ。参究というのは、疑悟一如の処に於いて行われる修行であり、一箇の話頭(公案)に対して、疑悟一体となって取り組むのである。疑悟一体というのは、疑問だけを先に置くのではなく、自らをまず仏道に置いて(よって、熱心な坐禅が必要である)、その中で、疑悟が一体となって働くところに、公案がただの文字の羅列ではなくて、自らの向上に繋がるといえる。
つまり、これから仏道に至るのではなくて、仏道に至ったところで、その中の働きに於いて行われる参究が参究である。それを理解してから、以下の文脈を学んでみよう。
学人の参禅は、先ず生滅心を断じ、及び発明の時、乃ち不生滅性を見る。若し生滅心を以て参ずれば、但だ妄想流転を逐うのみ、参究に非ざるなり。
『憨山老人夢遊集』巻12
これも、宋代などの、中古の時代の文献ではないけれども、「参究」について分かりやすい説示となっているので、見ておきたい。内容としては、学人が参禅(坐禅か、公案参究の意味か?)するときには、まず、生滅心を断じるべきだという。この「生滅心」とは、我々凡夫の日常的な心の働きを指している。
そして、発明(さとり)の時には、「不生滅性」を見るという。これは「性(事象の本質)」自体が、「不生滅」であると捉えられることが多いので、いわば仏性を見ることなどを指しているといえるだろう。不生滅としての仏性を見ることが、発明だとしているのである。
しかし、そのような仏性を見ることについて、もし、生滅心を持って参じようとしても、結局は、生滅心自体がもたらす、妄想なる流転にとらわれて、何時まで経っても、事象の本質には至らない。そのことを、「参究に非ざる」と述べているのである。そうなると、生滅心から不生滅性への転換が重要であり、その転換をもって、「発明」とはいえるわけである。
よって、その「発明」に至る心的転換を「参究」ともいうのであろう。
参禅は工夫を做い、次第に真実心を発す、参究も亦た然り。
『弘戒法儀』
こちらでは、参禅と参究との関連性を示しているが、先ほどからの文献と同様に、「真実心」という、普段の心ではない状態へと帰入するものである。今日はそういう大事な教えを知ることが出来た、まさにサンキュー!!
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