明治五年十一月九日、従来の太陰暦を廃して新に太陽暦を用ひられしめた。
太陽暦に換算すれば、明治五年十二月三日が明治六年一月一日になる。そこで神武天皇即位の元年を紀元と定め其年数を計算すれば、明治六年は紀元二千五百三十三年に当り、即位の正月朔日は正に二月十一日に当るので、之を紀元節の式日と定められた。
天長節は光仁天皇の宝亀六年に始めて定められ、毎年天皇の御誕生日を祝する為め当日は諸国に殺生を禁じ、内外の諸官に宴を賜はつたが、後世に至つて永く其式の廃れてゐたのを、王政復古と共に明治元年九月廿二日、再び天長節を復興あらせられた。
即ち嘉永五年九月廿二日は御降誕の日であらせられるので、明治元年以後毎年御降誕の日を天長の佳辰として、賢所、皇霊殿、神殿の御祭典があり、観兵式を奉行あらせられ、群臣に宴を賜ふことになつたが、太陽暦頒布の後、九月廿二日を換算すれば十一月三日となるので、明治六年よりは十一月三日を以て天長節と定められたのである。
中村徳五郎『面白い日本歴史のお話 : 伝説.明治・大正の巻』石塚松雲堂・大正11年
漢字表記など一部、表現を改めているけれども、一応原文を引用して検討した。
ここから、何故11月3日が明治天皇の「天長節」となったかが能く分かる。要するに、陰暦と陽暦との換算があってのことだと理解できる。元々明治天皇は嘉永5年(1852)9月22日にお生まれになったという。しかし、これはあくまでも陰暦での数え方であるから、陽暦に換算して現在の11月3日に定めたという。そういうのを調べるサイトで換算したら、以下のような結果が出て来た。
旧暦1852/AD1852
09/22(赤口)
新暦1852/AD1852
11/03(水曜)
このように、確かに11月3日で間違いないようだ。それから、現在の「建国記念の日」に相当するかつての紀元節については、神武天皇即位の元年を換算して成立したという。紀元前に対応した、換算サイトが少ないので、ちょっと分からなかったのだが、神武天皇の即位について、『東方年表』だと、紀元前660年1月1日であるという。なるほど、2月11日になりそうな感じもする。
それで、あともう一つ「変換」的な発想をしなくてはならないのが、何故、明治天皇の天長節を文化の日にしたかである。これは、色々と見たけれども、要するに明治天皇崩御に伴って「明治節」となり、その祝日が文化の日となったのである。これは、この日を祝日として遺したいという願望以上のことでは無い印象である。
現状でも、一時的に「みどりの日」と呼ばれた「昭和天皇誕生日」が現在「昭和の日」となっているのと同じ傾向だといえる。
そして、こういう時に、必ず大正天皇は外れてしまう。大正天皇の場合、誕生日は8月31日だったのだが、この日は祝日とはならなかった。どうしても全国的に「お盆休み」があるにせよ、8月にはここに来て「山の日」が制定されるまで、祝日は無かったのである。
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