つらつら日暮らし

今日は「憲法記念日」(令和5年度版)

今日5月3日は「憲法記念日」である。1946年11月3日(こちらの日付は「文化の日」)に公布されていた『日本国憲法』が、半年後の翌年5月3日に施行されたのを記念して、1948年公布・施行の祝日法によって制定された祝日である。

それで、今日はこの日に因んで、拙僧自身も「憲法」について学ぶ日と勝手に決めているのだが、今年は敢えて『大日本帝国憲法』について見ていきたいと思っている。帝国憲法は、明治天皇が議会開会の準備という経緯から、臣民のためを想って下賜された「欽定憲法」であるが、「自由権」の考え方には欽定らしい「制限」が付いている。ここでは一応宗教者でもある拙僧なりに、「信教の自由」を考えてみたい。

第二十八条 日本臣民は安寧秩序を妨げず、及臣民たるの義務に背かざる限に於て信教の自由を有す。
    伊藤博文著『帝國憲法 皇室典範 義解』国家学会蔵版・明治22年、51頁、文章は適宜改変


「自由権」とは、我々がこの世界で生存するために必要な自由の権利を、誰にも妨げられずに保有していることである。それは、このような憲法に於いても制限は出来ないもののはずなのだが、帝国憲法では「信教の自由」について、「臣民たるの義務に背かざる限に於て」という制限を付けている。この制限について、当時どのように理解されていたのか?或る文献がそれを強く示している。

而して此憲法の一条については日本の臣民は西洋の旧教にあれ新教にあれ基督教を信ずることを許すことあたはず。其理由云何となれば、彼教は崇信する所の耶和華(エホバ)神を独一真神・宇宙主宰者・寰宇之君・万民之殳と称し、独一真神の義を主張しては吾天神天祖を始め日本の神々をみな仮神・偽神・邪神と貶斥し、国体を蹂躙し大君大殳の義を皇張しては、吾君殳を小君仮殳とし、国君に背かして、家父に違はしむる無君無殳教なり。是即ち人倫の秩序を紊乱し、臣民の義務を壊滅す。其結局は国家の安寧を妨害し、大日本帝国を累卵の危域に至らしむる邪毒を胚胎してあれば、日本臣民は信ずべからざる教法なり。
    渡辺法瑞『耶蘇基督教不可信論―大日本帝国憲法第二十八条ニ付』坂井観順発行・明治23年


これは、いわゆる排耶論の一種である。同じような論は既に明治初めから複数存在したが、明治22年に公布、翌年施行となった帝国憲法の条文を用いて、早速に排耶論を展開したわけである。帝国憲法に於ける「信教の自由」は、江戸幕府から明治政府に変わっても、変わらずキリスト教が弾圧されていたことに対し、西洋諸国が抗議したため整備されたとされる。しかし、「臣民たるの義務」という曖昧な要素を残し、またここに、当時、国家神道確立を目指していた明治政府の意図が加味されると、結局は上記引用文のように、キリスト教排斥という大義名分が立ってしまうことになる。然るに、それではこの一条は本来、どのように理解されるべきなのだろうか?それについてはやはり、憲法の起草に深く関わった伊藤博文自身の見解を見ていく他はあるまい。

 中古西欧宗教の盛なる、之を政事に混用し以て流血の禍を致し、而して東方諸国は又、厳法峻刑を以て之を防禁せむと試みたりしに四百年来、信教自由の説始めて萌芽を発し以て、仏国の革命・北米の独立に至り、公然の宣告を得。漸次に各国の是認する所となり。
 現在、各国政府は、或は其の国教を存し、或は社会の組織又は教育に於て仍一派の宗教に偏袒するに拘らず。法律上一般に各人に対し、信教の自由を予へざるはあらず。
    伊藤前掲同著、51頁


さて、伊藤博文は、本書が書かれた1889年から遡ること400年ほどの政教の状況を、斯様に表現したわけである。つまり、西欧ではカトリックとプロテスタントの盛んな争いが、そのまま政事に反映されて流血の禍を招いたという。いわゆる宗教戦争である。一方で東方(特に日本)では、政治の側が、非常に厳しい刑罰を設けて、特定の宗教(キリスト教)を弾圧したという。いわゆる排耶である。

しかし、信教の自由が説かれ始め、フランス革命・アメリカ独立などにより、公然の宣告を通して、「自由権」が確立されると、それは西欧各国が認めるところとなった。その中に、「信教の自由」も含まれ、各国では、「国教」を定めることは無く、社会組織・教育に於いても一派の宗教(特定の宗教)に偏ることは無くなったとしている。そして、法律上、国民には信教の自由が与えられた。実際には、自然権としての信教の自由の筈だから、法律が与えたわけでは無い。基本的人権である。ただし、おそらく当時は法律上の権利のように理解されていたのだろう。

それは、次の一節からも理解可能である。

 而して異宗の人を戮辱し、或は公権私権の享受に向て差別を設くるの陋習は、既に史乗過去の事として〈独逸各邦に於ては千八百四十八年まで仍猶太教徒に向て政権を予へざりし〉、復其の跡を留めざるに至れり。此れ乃信教の自由は之を近世文明の一大美果として看ることを得べく、而して人類の尤も至貴至重なる本心の自由と正理の伸張は、数百年沈淪茫昧の境界を経過して、纔に光輝を発揚するの今日に達したり。
 蓋本心の自由は人の内面に存する者にして固より国法の干渉する区域の外に在り。而して国教を以て偏信を強ふるは、尤人知自然の発達と学術競進の運歩を障害する者にして、何れの国も政治上の威権を用ゐて以て教門無形の信依を制圧せむとするの権利と機能とを有せざるべし。本条は実に維新以来取る所の針路に従ひ各人無形の権利に向て濶大の進路を予へたるなり。
    伊藤前掲同著、51~52頁


ここまでは、「自由や権利」の側からの説明であり、信教の自由が認められると同時に、信教による差別が撤廃されたことを示している。しかし、同時にその自由の「限界」をも定めるように論が展開している。それは「本心の自由」という、本来の帝国憲法条文には無い一語である。伊藤は、「本心の自由」を「内面に存する者」であるとし、国法の干渉するべきものではないという。しかも、国教については偏信を強め、人知自然の発達と学術の進歩を妨げると明言している。この辺は、近年にもまだ残る「反知性主義」への批判とも取れる。

しかし、敢えて「本心の自由」に注目していくが、伊藤がこれを強調した理由は、次の一節を含めて理解すべきである。

但し信仰帰依は専ら内部の心識に属すと雖、其の外部に向ひて礼拝・儀式・布教・演説、及結社・集会を為すに至ては、固より法律又は警察上安寧秩序を維持する為の一般の制限に遵はざることを得ず。而して何等の宗教も神明に奉事する為に法憲の外に立ち国家に対する臣民の義務を逃るゝの権利を有せず。
    伊藤前掲同著、52~53頁


これまで拙ブログでも、帝国憲法に於ける「信教の自由」は、内信と外顕とに峻別(この辺の区別は阿満利麿先生の論に依拠している)され、本当の意味での「自由」は内信にしか無いと述べてきたけれども、それを良く示すのが、この一節であるといえる。つまり、先ほど伊藤は、「本心の自由」については、国家権力も及ばないとした。それは、上記引用文にも明らかだが、「外部」に向かって、様々な儀式を始めとする宗教的行為を行おうとする場合には、法律・警察上、それが追求されるべき安寧秩序の維持に巻き込まれてしまうのである。よって、法律・警察上の安寧秩序維持のための「一般の制限」に遵わざるを得なくなる。具体的には、何れの宗教も、神明に奉持することが求められ、自らを憲法・法律の外に立たせたり、国家に対する臣民の義務を逃れたりする権利を持っていないのである。

そして、本条の結論に至る。

故に内部に於ける信教の自由は、完全にして一の制限を受けず。而して外部に於ける礼拝・布教の自由は、法律規則に対し、必要なる制限を受けざるべからず。及臣民一般の義務に服従せざるべからず。此れ憲法の裁定する所にして、政教互相関係する所の界域なり。
    伊藤前掲同著、53頁


よって、帝国憲法28条に見える「信教の自由」は、内部に於いてのみ適用され、そこには制限が掛からない。我々は当時であっても、内面・内心には、どのような宗教を信じていても良かったのだ。だが、それが外部に発動されるような機会、それこそ、礼拝・布教などについては、制限が掛かってしまうし、臣民一般の義務である天皇崇拝・神道礼賛などには当然に遵う必要があった。現代的な意味での「信教の自由」についても我々は良く知る必要があるが、それは斯様な制限の多い時代から変遷して成立したものだと理解する必要がある。その内、現代的な「信教の自由」について、学ぶ機会を得たいと想う。

そして、このような当時の状況を知ると、自由を謳歌している我々が、当時の仏教者が「戦争協力した」ことや、天皇礼賛したことについて批判をすることの愚かさを知る。それよりも、これほどの制限を受ける中で、仏道の命脈を保ったことを礼賛すべきだ。無論、原理主義者にとってみれば、気に入らないことばかりだろうが、拙僧のような者には、ただただ有り難さのみが感じられる。

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