つらつら日暮らし

節分の拙文(令和5年度版)

明日は立春となるので、今日はその前日、節分である。そこで、節分に因んだ拙文に採り上げるため、以前から一度見てみたいと思っていた文章があるので、紹介したい。

【六十一】節分の夜大豆打つの事
△節分の夜、大豆を打事は、何の因縁ぞ
是れ更に慥なる本説を見ず。由来を云ふ人なし。但し或る古記の中に云く、節分の夜大豆を打つ事は、宇多天皇より始れり。鞍馬の奥僧正が谷、美曽路池の端の方丈の穴に住ける。藍婆惣主と云、二頭の鬼神共出て、都へ乱れ入んとしけるを、毘沙門の御示現に依て、彼の寺の別当奏し申子細あり。主上、聞召すに明法道に宣旨ありて、七人博士を集めて、七々四十九家の物を取て、方丈の穴を封じ塞て、三斛二斗の大豆を熬て、鬼の目を打は十六眼を打盲して、抱へて帰るべし。
 又、聞鼻と云鬼、人を食んとするをは、取るべからずと云、御示現也と、云云。
    『塵添壒嚢鈔』巻3、カナをかなにするなど見易く改める


いわゆる「豆まき」の起源について、検討した文章である。本書では、その確かな由来は不明と言いつつも、或る古記の中から、宇多天皇に因む事績を導いている。宇多天皇とは、生没年が867~931年で平安時代初期の第59代天皇である。仏教との繋がりは強く、勅願寺として仁和寺を建立したことや、自身、出家して阿闍梨にまで上るなどし、いわゆる法皇の位置となっている。

それで、『壒嚢鈔』が参照している「古記」については、ちょっとすぐには分からなかったので、これ以上深めようがない。なお、『壒嚢鈔』と同様に室町期に編まれた辞典で『下学集(上下巻)』というのがあるが、それにも「節分」のことが書いていたので、見ておきたい。

百鬼夜行〈節分の夜なり〉
    『下学集』巻上「時節門第二」


なんか、急に「百鬼夜行」の話になっている。『呪術廻戦0』の夏油さんでもあるまいし・・・とか思っていたら、これは次の項目への「フリ」であった。

追儺〈節分の夜に禁中殿上の侍臣、桃の弓、葦の矢を以て悪鬼を駆る、之を追儺と謂ふ〉
    同上


こちらに続いてた。要するに、節分の話として、こういうことをやっていたのである。あれ?豆まきどこ行った?それで、実際にこのことを調べていくと、本当に諸説紛々としていて、何に確定すべきか分からなくなってくる。なお、『壒嚢鈔』は後に享保年間に刊行された『万物故事要決』というのに引用されるなどして、それなりに影響を与えているが、どうも、明治期以降の各種事典を見ると、平安時代の文献に直接当たって、「節分」を調べている事例が見られる。

それからすれば、今回紹介した文献などは、「新しい」わけである。

明日は立春なので、それに因んだ記事も書いておきたい。

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