つらつら日暮らし

菩薩戒を宣説出来ない理由

ちょっと面白い文脈を見つけたので、採り上げつつ学んでみたい。

 世尊よ、是の因縁を以て、菩薩の戒、宣説すべからざるなり。
 菩薩戒は終に自ら誑かさず、亦た仏を誑かさず。何を以ての故に、自、即ち無性、無性即ち無、無即ち無出、無出即ち是れ因縁有ること無し。因縁有ること無しとは、即ち是れ字無し。字無しとは、即ち是れ言説すべからず。
 若し菩薩有りて能く是の如く学して、即ち自ら誑かさず。
 云何が名づけて誑かさると為すや。諸仏如来一切の諸法の非法非非法を覚了す。若し非法非非法なれば、即ち是れ平等なり。是の如く平等なれば、宣説すべからず。
 若し菩薩有りて是の如くの学を作せば、是れを諸仏如来を誑かさずと名づく。
    『大方等大集経』巻13「不可説菩薩品第七」


そもそもこの一品が、「不可説菩薩品」というタイトルだから、「不可説(説くべからず=説くことが出来ない)」な事象について示すものであるが、その中で「菩薩戒」もまた、宣説出来ない事象として把握されている。

それでは何故、宣説出来ないのかと言えば、それは、菩薩戒の護持とは、自己自身を誑かすことがなく、また、仏を誑かすことがないからだとしている。この場合の「誑かす」とは、菩薩戒の本質が、疑いようもないことを指す。そこで、上記一節では、各々の自性が、無性であるとしている。

そして、無性ということは、そもそも無であり、何かが発出されることはない。よって、結果に繋がる因縁となることもない、因縁となることもなければ、字で表現されることもない。つまりは、言語化されないので、宣説されないという話になるのである。

また、このように修行している菩薩は、何も誑かすことはない。それは、諸仏・如来が諸法の非法・非非法を悟るが、それは法が平等だということである。そして、平等であるならば、何か特定の語るべき戒の様子を認識できないのである。そのため、「宣説出来ない」という話になる。

つまりは、空観の徹底した様子に、菩薩戒の位相があることを意味している。そのため、空観を徹底すれば、それは同時に、諸仏如来を誑かさないことを意味していたわけである。

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