養生の道とは、何かを恃んではならない。(人は)我が身の強さを恃んだり、若さを恃んだり、病が軽く緩和したことなどを恃むものだ。これらは皆、災いの元である。
刃の鋭さを恃んで、堅い物を切れば刃は折れてしまう。生命力の強さを恃んで、みだりに力を使えば、力が減ってしまう。内蔵の強さを恃んで、飲食や色欲が過度になってしまえば、病となってしまう。
岩波文庫本46頁、拙僧ヘタレ訳
益軒は、常に慎重にものを考え、そして生きるタイプだったようです。また、常に過信を誡めていました。この辺は、我々仏道修行者にとって「観無常」ということに通じるものです。我々は、無常を観じているからこそ、急いで修行をしなければならないわけですが、それは、我々自身がいつ何時、死に至るか分からない、だからこそ、今生きているこの世界で善行を積もうという話になるのです。無常を元にしていますから、ちょっとくらい仏道が分かったって納得出来ませんし、自分自身についても恃むことはできません。
養生というのも、おそらくどこか安易に定められる「結果」を模索して行うものではないといえましょう。だからこそ、何かに恃んで全てをぶち壊しにすることなどできないわけです。そのことを、以下のような言葉でも表現しています。
一時の欲を堪えずに、病を生じて、百年生きられるかも知れない身を過ってしまうのは、愚かである。長命を保って、久しく安楽であることを願うのならば、欲をほしいままにしてはならない。欲を堪えることは長命の元である。欲をほしいままにすることは短命の元である。
ほしいままにすることと忍ぶことと、これは長命と短命とが別れるところである。
岩波文庫本47頁、拙僧ヘタレ訳
益軒が理想とする養生とは、ちょっと我慢をして、そして良い状態に持って行くということが基本になるとは思います。しかし、その養生的生き方が、余りに普通になることで、自分が養生していると思わないほどに、当たり前に養生的生き方をする必要もあるといえましょう。その意味で、欲については常に「堪える」「忍ぶ」ことが肝心であり、「ほしいまま」にすることは認められないのです。
どうでしょう?このように考えてみると、とにかく益軒の『養生訓』とは、様々な実践方法が載っていますけれども、それを行うには、とにかく自分自身のほしいままに生きるという欲を抑え、平穏なる精神状態に行き着くことが肝心であります。これは、養生的生き方に入るための最初の一歩であるともいえます。そして、この一歩から、後は、方法に従って生きていくことが求められます。
その方法については、当連載で触れられれば触れたいと思いますけれども、あまり詳しく立ち入ると、医学的問題についても考慮しなければならないので、それは医学を学ばれた方にお任せするようにしたいと思います。色々と調べてみると、『養生訓』の見解を、現代医学の目で検証するサイトやブログもあるようです(相手の内容に責任を持てないので、紹介はしませんが・汗)。次回以降も、とりあえずは養生的生き方に必要な条件や考え方などを紹介したいと思います。
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