重衡法然房を請する事
三位中将は九郎義経の許へ、出家をせばやと思ふは、免し給てんやと宣ければ、義経が計には叶い難し、御所へ申入て其の御左右に依るべしとて奏聞あり。頼朝に仰合さずして出家暇を免ん事、治し難しの由、仰せ下せられければ、御気色角とて及ぶ力給わず。中将重て、出家は御免なければ今は申すに及ばず、さあらば年来相知て侍る上人を請じて、後世の事をも尋聞ばやと有ければ、上人は誰にて御座ぞと問奉。黒谷法然房と申せられたり。兼て貴き上人と聞給ければ、後世の情にと思つゝ是を奉免。三位中斜めならず悦て、軈友時を使にて、黒谷の庵室へ申されたりければ、法然上人来給へり。
中将泣々宣、「重衡が身の身にて侍し時は、誇栄花驕楽憍慢の心は在しか共、当来の昇沈かへり見る事侍らず、運尽世乱て後は、此にて軍彼にて戦と申て、人を失ひ身を助んと励悪念は無間に遮て、一分の善心会て起らず、就中南都炎上の事、公に仕り世に随ふ習にて、王命と申父命と申、衆徒之悪行を鎮ん為に罷向処に、不側に伽藍の滅亡に及し事、不及力次第也といへ共、大将軍を勤めし上は、重衡が罪業と罷成候ぬらん、其報にや、多き一門の中に我身一人虜れて、京田舎恥を曝すに付ても、一生の所行墓なく拙き事今思合するに、罪業は須弥よりも高く、善業は微塵計もたくはへ侍らず、さても空く終なば、火穴刀の苦果且て疑なし、出家の暇を申侍れ共、責ての罪の深さに御免なければ、頂に髪剃を宛て、出家に准へ奉受戒候ばや、又懸罪人の一業をも、まぬかるべき事侍らば一句示し給へ、年来の見参其詮今にあり」と宣ければ、
上人哀に聞給て、「誠に御一門の御栄花は、云官職俸禄と申、傍若無人にこそ見え御座しか、今角成給へば、盛者必衰の理夢幻の如也。されば善に付悪に付、怨を起し悦をなす事有べからず、電光朝露の無益の所、兎ても角ても有ぬべし、永世の苦みこそ恐れても恐あるべき事にて侍れ。難受人界の生也、難値如来の教也。
而今悪逆を犯して悪心を翻し、善根無して善心に住して御座さば、三世の諸仏争随喜し給はざらん、先非を悔て後世を恐るゝ、是を懺悔滅罪功徳と名。
抑浄土十方に構、諸仏三世に出給へ共、罪悪不善の凡夫入事実に難し、弥陀の本願念仏の一行ばかりこそ貴く侍れ、土を九品に分て、破戒闡提嫌之事なく、行を六字につゞめて、愚痴暗鈍も唱るゝに便あり。一念十念も正業となる、十悪五逆も廻心すれば往生と見えたり。念々称名常懺悔と宣て、念々ごとに御名称ずれば、無始の罪障悉く懺悔せられ、一声称念罪皆除と釈して、一声も弥陀を唱れば、過現の罪皆のぞかる。
故に南無阿弥陀仏と申一念の間に、よく八十億劫之生死の罪を滅す、憑ても憑むべきは五劫思惟の本願、念じても念ずべきは此弥陀の名号也。
行住坐臥を嫌ねば、四儀の称念に煩なく、時所諸縁を論ぜねば、散乱の衆生に拠あり。下品下生の五逆の人と称して已に遂往生、末代末世の重罪の輩も、唱へば必可預来迎、是を他力の本願と名。又は頓教一乗の教と云。浄土の法門、弥陀願巧、肝要如此とぞ善知識せられたりける」。
其後上人剃刀をとり、三位中将の頂に三度宛給。初には三帰戒を授、後には十重禁をぞ説給。
御布施と覚しくて、口金蒔たる双紙箱一合差おき給へり。此箱は中将の秘蔵しおはしけるを、侍のもとに預置給ひたりけるが、都落の時取忘給たりけるを思出給ひて、友時を以て召寄給ひたりける也。偖も三位中将は、今の知識受戒の縁を以、必来世の得脱を助給へと宣も敢ず泣給へば、上人は衣の袖に双紙箱を裹、何と云言をば出し給はず、涙に咽て出給へば、武士も皆袂を絞けり。
『源平盛衰記』
三位中将が、いわゆる平重衡(1157~1185、平清盛の五男)である。源平合戦の最中で、寺社との抗争も激化した平家政権の大将として、南都焼討をした人として知られている。その後、都落ちして西に逃亡した平家の中で、常に大将として戦ったが、源義経の奇襲攻撃で名高い、一ノ谷の合戦で敗れ、囚われた。
上記の内容は、その囚われた後の話である。
それで、重衡は一度、鎌倉に送られて、俘虜の生活を送っていたが、焼き討ちにあった南都の恨みは凄まじく、重衡を引き渡すように源頼朝に求め、南都に送られた重衡は斬首されたという。
ただし、斬首される前に、出家したというのだが、その経緯が示されたのが、上記内容である。もちろん、『源平盛衰記』という二次資料の内容であるから、正確な史実かどうかの判定はできないが、出家をしたというのは、どうも事実ではないと断じることは出来ないようである。
そこで、気になるのは、以下の2点である。
①南都焼討という罪業とその反省について
②出家の作法について
まず、①については、法然上人を前に、重衡は自らの罪業を悔やみ、反省したところ、法然上人は、二段構えの対応を示している。1つは、重衡自身による至信の懴悔である。ただし、その懺悔について、法然上人の言葉として、「而今悪逆を犯して悪心を翻し、善根無して善心に住して御座さば、三世の諸仏争随喜し給はざらん、先非を悔て後世を恐るゝ、是を懺悔滅罪功徳と名」とあって、重衡の態度について讃歎したものといえる。
そして、「そもそも論」として、阿弥陀仏への念仏の功徳としての懺悔を示している。その根拠となるのが、「念々称名常懺悔」であるが、善導大師の『般舟讃』を典拠としている。その結果、「故に南無阿弥陀仏と申一念の間に、よく八十億劫之生死の罪を滅す」と、重衡に告げたのであった。
その結果、法然上人は重衡を出家させたが、「其後上人剃刀をとり、三位中将の頂に三度宛給。初には三帰戒を授、後には十重禁をぞ説給」という作法の様子であった。まずは、剃刀を当てて、いわゆる剃髪をしたことになるが、その上で、「三帰戒」を授け、更に「十重禁戒」を授けたという。
そうなると、菩薩戒のみをもって、出家の作法としていた様子が分かる。今回は、そのことを確認するだけであるが、これがその後の同宗派の出家作法とどう関わるのかは、また別の機会に見ておきたい。
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