紀元節
本日は旧暦の正月元日にして 大祖神武天皇日向より兵を起し中州を平定し創て都を山との橿原に建て大位に即せ給ふ日にて即辛酉元年正月元日に当り元年を紀せし始めなり 故に紀元節といふ 今を距ること二千五百三十五年なり
城井寿章 (悔庵) 『歳時行事(上)』明治11年、19丁表~裏
江戸時代までには無かった「紀元節」が、国内に定着してきた明治10年代の文献では上記のように書かれ、いわゆる神武天皇が即位した日を、1878年(明治11)から2535(+1)年とし、更に紀元0年は無いなど、諸事勘案すると、紀元前660年(辛酉)となる。そこで、同年の1月1日を明治11年に換算すると2月11日になったので、この日を「紀元節」にしたとなっている。
色々と細かく計算すると、こう簡単な話では無いような印象ではあるが、これはこれとして頂戴しておきたい。
ところで、近代日本に於ける「2月11日」というと、この「紀元節」の他に、『大日本帝国憲法』の発布という重大な日付となっている。これは、明治22年(1889)のことであった。そこで、同憲法本文に先んじて、「三誥」と総称される、明治天皇による告文・勅語・上諭があるのだが、今日はその内の「上諭」を学んでみたい。
何故ならば、例えば憲法学者の美濃部達吉氏などはこの「上諭」を全体として六段に分けるというのだが、その内、幾つかは『大日本帝国憲法』自体の効力や、天皇自体の権力の源などにまで言及されたものとされる。ただし、『大日本帝国憲法』解釈として必読の伊藤博文著『憲法義解』(岩波文庫本参照)や、美濃部『憲法講話』(岩波文庫本参照)にはこのことを論じていない。Wikipediaを見ていたら、里見岸雄『天皇法の研究』(錦正社・1971年)が参照されていた。たまたま、大学院生の頃に、この本を購入していたので確認したが、同著156頁で美濃部の『逐条憲法精義』を参照して、「上諭の法的性質」が明らかにされたとしている。なお、里見自身は、「上諭」のみならず「三誥」全体が法的性格を具備するとしているが、余り論理的な説明とはなっていない。まずは、美濃部の立場で考えてみたいところである。
よって、当ブログで気になるところを見ておきたい。また、便宜的に六段には数字を充てておく。
①朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
まずは、第一段として、明治天皇が何故、この憲法を制定するに至ったかの経緯を説明されている。ところで、「祖宗」という言葉が出てくるが、「祖先代々の君主」を指す言葉で、具体的には歴代の天皇を指していることになる。また、「遺烈」とは「先人が後世のために残した功績」を指すため、明治天皇はこれまでの天皇の功績を受けつつ、万世一系の帝位を受け継ぎ、また、自らが信愛する臣民の幸福を増進させるために、あるいは、ともに国家の進運を担うために、「明治十四年十月十二日ノ詔命」を履践するとされるが、これは「国会開設の詔」のことを指している。つまり、この憲法を定め、そして、国会を開くことを目的にしているといえよう。
②国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
こちらは、天皇が保持していた国家統治の大権が、どこから来たものであるかを明示している。具体的には、「祖宗に承けて」とあるので、歴代の天皇が保持してきた権力を、自らも承けることを宣言している。更には、その大権を子孫にも伝えるが、明治天皇自身も、後代の天皇も、将来にわたって、この憲法の条章に従って行うべきであり、誤ってはならないとしている。
しかし、この一節はかなり大切で、明治期の天皇の権力が、世襲されてきたものだと示す一方で、更にそれを用いるために、憲法の条章を挙げているということは、国家統治の大権が、憲法を通して国家に展開することを示すといえようか。
③朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
これは、臣民の権利と財産の安全を尊重するとしているので、いわゆる「自由権(或いは基本的人権)」について配慮することを宣言している。「此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ」とあるから、後に定められた法律などで、阻害される可能性があることも理解出来る。
④帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
既に①で見たように、『大日本帝国憲法』は、議会開設と伴って制定されたものであったが、転じて、議会開会をもって、この憲法が有効になるとしている。よく、色々な説明を見ると、『大日本帝国憲法』の発布をもって、議会が開会されたとするものもあるのだが、④を見る限り、招集された議会の開会をもって、有効になるとしているので、説明は逆である。なお、先に挙げた通り、明治22年2月11日の『大日本帝国憲法』の公布(同日に「衆議院議員選挙法」も成立した)をもって、翌23年には、貴族院の互選・勅選と、第1回衆議院議員総選挙(同年7月)が実施され、同年11月29日に、上記二院制の第1回帝国議会が開会されたのである。
⑤将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
こちらは、憲法改定の内容だが、天皇及びその子孫は改定のための「発議の権」を保有しているようだが、それを「議会に付し」とアルので、最終的には議会によっては提議され、検討されるものだったといえよう。なお、その際には、憲法に定めた要件によって議決するというが、この議決は極めて重大で、天皇やその子孫や臣民が、この決議を改めることがあってはならないという。つまり、議会至上主義だった印象すら得る。
⑥朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ
国務大臣についての内容だが、大臣は憲法を施行する責任があるとし、更には、当時及び将来の臣民は、憲法に対して従順であるべき義務を負うという。つまりは、憲法の擁護(護憲)の義務を負っていたことを意味している。そうなると、従順の義務と、改定の権利とが、どのような相関関係を持っているのかが分からないのだが、改定の権利自体は、天皇にあって、それを議会に付すものであったから、やはり、改定は非常なことだったということか。
以上に見た通り、『大日本帝国憲法』とその周辺に於ける根拠や権利の淵源などを確認した。もちろん、現代の『日本国憲法』とは様子が異なることは間違いないが、近代国家としての姿を急速に整えねばならなかった明治期の方々の苦労が偲ばれるような気がする内容であった。
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