伝教大師云く、二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ。唯教大師一人に限るに非ず。鑒真の弟子如宝・道忠竝びに七大寺等一同に捨て了んぬ。
『四信五品鈔』
これが、前回も採り上げた文脈であったが、このように、伝教大師が、「二百五十戒」を捨てたという。これは、いうまでもなく、『四分律』に基づく比丘戒(具足戒・声聞戒)である。伝教大師は、日本の東大寺で、これを受けていたが、後に捨てたという伝承がある。なお、日蓮聖人は、それを「伝教大師云く」とし、大師自身の言葉であるかのように取り扱っているが、この辺の出典はどこなのだろうか?
自今以後、声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀に乖く。即ち自ら誓願して二百五十戒を棄捨し已んぬ。
『叡山大師伝』
最近の研究では、『叡山大師伝』の著者は、伝教大師の弟子であった真忠という人だったとされているようだが、どちらにしても、伝教大師の伝記資料としては、第一になるのが本書である。その中に、以上のようにあるので、日蓮聖人もおそらく、この辺を参照されたのだろうと思われ、内容的にはほぼ一致すると見て良い。
そこで、日蓮聖人によるこの一件への言及は、他にも存在している。
答て云く、伝教大師は二百五十戒をすて給いぬ。時に当たりて、法華円頓の戒にまぎれしゆえなり。
『法門可被申様之事』
文章は短いし、また、実はこの文脈は、日蓮聖人の念仏観を示す箇所なのだが、その傍証として、伝教大師に言及したものである。個人的に気になったのは「法華円頓の戒」という表現である。言うまでもなく、「円頓戒」とは日本天台宗で授受される菩薩戒のことだが、そのことなのだろうか?
このような疑問を持っていたら、それを解消させてくれそうな文脈を見出したので、学んでおきたい。
伝教大師は仏の滅後一千八百年、像法之末に相当りて日本国に生まれ、小乗・大乗・一乗の諸戒一々之を分別し、梵網・瓔珞の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し、又法華普賢の円頓の大王之戒を以て諸大乗経の臣民之戒を責め下す。此之大戒は霊山八年を除いて一閻浮提之内に未だ有らざる所の大戒場を叡山に建立す。
然る間、八宗共に辺執を倒し一国を挙げて渡す所の律宗、弘法大師の門弟等、誰か円頓之大戒を持たざらん。此の義に違背するは逆路之人なり。此の戒を信仰するは伝教大師の門徒也。
『曾谷入道殿許御書』
以上でも、やはり伝教大師が『梵網経』『瓔珞経』で示す菩薩戒の「別受戒(殊更に受けること)」でもって、「二百五十戒」を否定し、更には、『法華経』『観普賢菩薩行法経』などを典拠として「円頓戒」を示し、それを授けたとしているのである。日蓮聖人は「円頓之大戒」という呼称を用いつつ、これは、釈尊が霊鷲山におられた8年を除いて、この世界で授戒されたことが無いとした。転ずれば、伝教大師による「大乗戒壇設立」の意志を、高く尊重していることになるだろう。
そして、上記の一節から、「円頓之大戒」の位置付けは、『梵網経』などに依拠するのでは無く、やはり、『法華経』系に依って構築されたと判断していることになる。『梵網経』は、もちろん、近年の研究では中国成立となっているが、その内容は「華厳部」系である。よって、釈尊成道の直後に開示されたものになるため、「霊山八年」では無いのである。
なお、日蓮聖人は、この伝教大師による捨戒をもって、自身が行うべき信仰や行について、廃捨を是認する様子が見られる。もちろん、それは正しく唱題へと帰入していくためであるが、より正しき道理によって、一度は自分が受けたことであっても、捨てて良いという発想になったのである。
また、ここまで考えた時、結局、日蓮聖人は「円頓戒」をどのように捉えていたのだろうか、その辺も気になったが、また別の記事にしてみたい。
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