つらつら日暮らし

『緇門警訓』に見る坐禅の説示7(令和4年度臘八摂心短期連載7)

令和4年度臘八摂心7日目である。明日は成道会の記事なので、この記事が今回の短期連載、最後の記事となる。『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』の末尾の文章を見ておきたいと思う。

 生死永く息み、一粒の還丹、金を点じて汁を成し、身心客塵、透漏無門なり。
 迷悟且く説き、逆順論を休む。
 細に昔日を想い、冷坐尋覓すれば、然も不別なりと雖も、也た大狼藉なり。
 刹那の凡聖、人の能く信ずること無し。
 匝地忙忙にして、大に須らく謹慎すべし。
 如し其れ知らずんば、端坐思惟、一日築著す。伏惟伏惟。
    『緇門警訓』巻上


以上が、今回見ている『坐禅銘』の末尾の部分である。意味としては、前回の記事をご覧いただきつつ学んでいただければ良いのだが、心の働きにとらわれがなく、自由自在であれば、生死輪廻が長く止まり、水銀から戻った丹薬が、わずか一粒でも金の汁を出す(この辺は、中国流の錬金術である)ように、身心も感覚器官の対象となる事象も、全てが透き通り、門が無くなる(とどまるべき対象が無くなる)。

その上で、迷悟や逆順の理論を全て止めてしまうのである。

また、細やかに過去を思い、冷坐して過去を尋ねたとすれば、そこに分別が無くても、大狼藉となる。刹那だけの凡人となり、聖人となっても、人が信じるはずがない。地(という心の無駄な働き)を必死に払い、大いに慎むべきであるという。これは、一時的な悟りに安住するべきではなく、過去の自分にもとらわれるべきではないということであろう。

そして、これらを知ることがなければ、端坐し思惟したところで、一日、ただ築著(課題に突き当たる)だけである。このことを、伏して惟んみるべきである。

以上で『坐禅銘』の大概を示した。大体の意味を採っただけなので、誤っていることもあると思うが、当方で矛盾に感じなかった部分は、そのまま掲載した。

なお、修証といった問題が全く論じられていないことが気になったが、心のあり方などを参究するのであれば、是非はともかく、得るところがあるだろう。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ#仏教

コメント一覧

tenjin95
@fugetu3483 > 風月さん

返信が遅くなりました。

なお、とても難しいご質問です。現代では、かなり普通に用いられている表現ですが、意外と「大衆の威神力」は古来の表現に見えないためです。

個人的には、『瑩山清規』の中に「僧宝大悲之威神力」や「安居同修之威神力」などの表現が見えますので、この辺があって、近現代で用いられているようになったのではないかと思っております。
fugetu3483
お邪魔します。すみませんが、「大衆の威神力」の出典はどこか、ブログを書いていまして、出典が見つかりませんので、お教えいただければ幸甚です。自分のブログの中に、「つらつら日暮し」さんに訪問して教えてもらいましょう、と、書いたところです。
よろしくお願いいたします
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「坐禅・只管打坐」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事