生死永く息み、一粒の還丹、金を点じて汁を成し、身心客塵、透漏無門なり。
迷悟且く説き、逆順論を休む。
細に昔日を想い、冷坐尋覓すれば、然も不別なりと雖も、也た大狼藉なり。
刹那の凡聖、人の能く信ずること無し。
匝地忙忙にして、大に須らく謹慎すべし。
如し其れ知らずんば、端坐思惟、一日築著す。伏惟伏惟。
『緇門警訓』巻上
以上が、今回見ている『坐禅銘』の末尾の部分である。意味としては、前回の記事をご覧いただきつつ学んでいただければ良いのだが、心の働きにとらわれがなく、自由自在であれば、生死輪廻が長く止まり、水銀から戻った丹薬が、わずか一粒でも金の汁を出す(この辺は、中国流の錬金術である)ように、身心も感覚器官の対象となる事象も、全てが透き通り、門が無くなる(とどまるべき対象が無くなる)。
その上で、迷悟や逆順の理論を全て止めてしまうのである。
また、細やかに過去を思い、冷坐して過去を尋ねたとすれば、そこに分別が無くても、大狼藉となる。刹那だけの凡人となり、聖人となっても、人が信じるはずがない。地(という心の無駄な働き)を必死に払い、大いに慎むべきであるという。これは、一時的な悟りに安住するべきではなく、過去の自分にもとらわれるべきではないということであろう。
そして、これらを知ることがなければ、端坐し思惟したところで、一日、ただ築著(課題に突き当たる)だけである。このことを、伏して惟んみるべきである。
以上で『坐禅銘』の大概を示した。大体の意味を採っただけなので、誤っていることもあると思うが、当方で矛盾に感じなかった部分は、そのまま掲載した。
なお、修証といった問題が全く論じられていないことが気になったが、心のあり方などを参究するのであれば、是非はともかく、得るところがあるだろう。
#仏教
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