風月庵だより

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弟子の僧堂安居先 永平寺東京別院推奨

2025-02-12 13:12:02 | Weblog

2月12日(水)晴れ【弟子の僧堂安居先 永平寺東京別院推奨】

弟子の一人が、まもなく永平寺の本山修行から送行(そうあんー卒業とはちょっと違いますが、一応既定の修行を終えて修行先を送られて出てくること)してきます。ご本山では、典座寮(台所係)と直歳寮(しっすいりょうー雪かきやお掃除係)を勤めさせて頂きました。

ご本山は3年安居しませんと、知殿寮(法要などを司る係)配役にはなりませんので、3年以上安居できる徒弟の方には、とても良いと思います。

しかし、わずか一年では、僧侶としての法要に関して必要なことは学ぶことができません。つくづくわかりました。

そこにいきますと、東京南青山7丁目にある永平寺東京別院の長谷寺は、規模も本山ほどではありませんが、檀家さんも多く、お墓もありますので、法要に関して必要なことも学べますし、僧侶として身に付けなくてはならないことの多くを一年でも学べます。

また安居している雲水さんたちの雰囲気がとてもよいです。

また現在は安居する雲水さんの人数がほどがよいですから、いろいろなお役を勤めなくてはなりませんので、いろいろと学ぶことができます。

徒弟を僧堂修行に出したいとお考えの方には、是非お勧めしたいです。

此処で一年の安居でもよいですが、三年も安居できる人はさらによいでしょう。お寺に戻っても、すぐに役に立つことができると思います。

坐禅修行を一生なさりたい目的の方には、またそのような目的にあった修行道場があると思います。

どこで修行したか、徒弟の方たちにとって、一生重要なつながりができますので、慎重でありたいです。師匠としての責任と思っています。

そんなことで、東京別院長谷寺をお勧めしました。

 

 


不知最親切 地蔵に学ぶ

2025-02-10 11:27:45 | Weblog

2月10日(月)晴れ【不知最親切 地蔵に学ぶ】

『宏智頌古』百則(『従容録』)の第20則に「地蔵親切」という則があります。

地蔵といってもお地蔵様ではなく、地蔵院という寺の住職であった桂琛(けいちん)(867~928玄沙師備の法嗣‐はっす)という禅僧のことです。

先日「不知」という言葉について書きましたので、地蔵桂琛さんの「不知最親切」について一筆。

挙。地蔵問法眼、上座何往。眼云、迤邐行脚。蔵云、行脚事作麼生。眼云、不知。蔵云、不知最親切。眼云、豁然大悟。

挙す。地蔵、法眼に問う。上座何くに往くや。眼云く、迤邐(いり)として行脚す。蔵云く、行脚の事、作麼生(そもさん)。眼云く、知らず。蔵云く、不知最も親切。眼、豁然(かつねん)として大悟す。

地蔵が法眼(ほうげん)に聞きました、おまえさんはどこに往くのかね、と。
法眼は答えました、「ぶらぶらと行脚します」と。
地蔵は云いました、「行脚とはいったい何なのかね」と。
法眼は云いました、「知りません」と。
地蔵は云いました、「不知というのは、最も親切じゃのう」と。
法眼は、この言葉に行き詰っていたのがパッと開き、悟ったのです。

ざっと訳しますと、こんなところです。法眼は地蔵の弟子です。
法眼は「不知ーわかりません」と云ったに過ぎないのですが、師匠の地蔵は「不知とは最も親切」と答えたのです。

このブログで数日前に「不知」について書きました。知らない、ということは、地蔵は不知ということは一番よく知っていることだ、と教えてくれたわけです。

ここで「親切」の意味を『禅学大辞典』を開きますと、「ぴったり適合する。非常に親切なこと」とあり、『禅語辞典』には「自分にとってグサリとくること」とあります。現代の意味に波及していますが、禅語の意味は多少違いますので、辞書で確認が必要ですね。

不知ということは一番よく知っていること、ここが大事なところでしょう。

本師余語翠巖老師は「天地本源のいのちの姿が、このようになっていることなのだから、いちいちそれを考えているわけにはいきません。そのままになって、ちょっともそういうことが意識にのぼらない、そういうことを「知らん」というわけです。」

と説かれています。

いかがでしょうか。「不知」について参究してみました。愚痴言わず、不平不満のない、人生、何があっても。

*眠っていると知らないで寝ているタロー君です。その上の紙は「布団の中でルナな寝ているか確認!!」と書いてあります。

 


南泉白牯 仏性を考える

2025-02-08 14:01:55 | Weblog

2月8日(土)晴れ【南泉白牯 仏性を考える】

今日は2月8日です。時のたつのは、あまりに早く、これでは私もあの世に帰らなくてはならない日が、あっという間に来る感じがあります。

2月15日を日本では一応お釈迦様のお涅槃の日、としていますので、禅寺では涅槃会摂心(接心)が行われるでしょう。

今、二人の弟子が僧堂修行していますので、もうすぐ接心を勤めることでしょう。自分は、それほど長時間の坐禅をしている時間も、体力もありません。本当に接心に耐えられるときに修行することは、大事です。

さて、先日、『従容録』の石井修道先生の研究会に参加させていただき、久々に『従容録』に触れました。私の研究は『宏智頌古』(わんしじゅこ)百則で、『従容録』の元となっている頌古です。ご存じと思いますが、『碧巌録』の元になる頌古は『雪竇頌古』(せっちょうじゅこ)百則です。

さて、『宏智頌古』69則に「南泉白牯」として、次のような「本則」があります。

挙。南泉示衆云、「三世諸仏不知有、狸奴白牯却知有」
(訓読)挙す。南泉衆に示して云く、「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」

このような本則です。「何」が有る、ことなのでしょうか。(『宏智頌古』として考えますので、著語は抜きました。)

一つに「仏性」と言えます。多くの老師の提唱録がありますが、それをひきだしてくるのはやめにしまして「仏性」として考えましょう。三世の諸仏は、仏性があることを知らない、狸奴白牯(りぬびゃっこ)ーところが狸や雄牛などの動物は、仏性の有ることを知っている。

これはどういうことを言っているかと考えますと、簡単に言えば、諸仏は今自分がしていることは「よいことをしている」などという自覚なく、当たり前に為すことが仏性の表れであり、それを「よいことをしている」とおもっているわけではないが、そうでない輩(諸仏ではない)は、「よいことをしている」と、自分の行為をそう思っている、と訳しておきたいと思います。

つまり自分が為していることが、善行であるなどという顔をして善行をしていない、三世の諸仏は、どっぷり仏性そのものですから、今やっていることが、「よいことだ」などと思っていません。

俗人は自分の行為を、特に世間的に、まあ、善行だろうということを為すとき、「自分は良いことをしているでしょう」「偉いでしょう」などと、ついつい承認欲求を出してしまうのではないでしょうかね。

ところで、本師余語翠巖老師の『従容録』提唱録を読みますと、次のように書かれています。

三世の諸仏と言われるような人たちは、本来のもの、無限定で、説明しきれるものではない天地のいのちというふうなもの、そういうものがあるということも知らない、というのですね。

本人は当たり前の善行をしておるだけじゃ、実際の孝行というのは、しているということを意識しておらんということです。

ところが、牛や狸といわれる動物のようなものは、そういう自分がよいことをしておるということを意識しながらやっている、ということですが、一方はよいことをやっていて、よいことをやっていることも知らん、ところが他方にはよいことをやっていることを鼻にぶらさげている連中がいると、そういうふうに普通は解釈しているわけです。

禅語録を読みますと、わずか数行の中に、かなり深い意味があることを改めて思います。面白いです。私は禅宗で出家して面白いです。

*話は変わりますが、どなたでも、出家志望の方がいましたら、是非当ブログにご連絡くださいませ。出家は面白いです。

*お邪魔猫と知らないで、お邪魔しているルナちゃんです。

 

 


小説家志望の夢

2025-02-01 20:45:06 | Weblog

2月1日(土)曇り【小説家志望の夢】

2月ですね。迅いですね。ついこの間2025年の幕が開けたばかりだというのに。

さて、「小説家志望の夢」とは、私が中学から大学までいやその後も持っていた夢でした。

今はその夢はありません。ただ、もう一冊どうしても書きたい経典の解説書をあたためてはいます。

先ほど、私が浦和の浄土宗のお寺の留守番として、10年暮らした時、寺子屋をしていた時の教え子から電話をもらいました。彼女は時々電話をくれます。寺子屋をしていた時は、今から38年くらい前の話です。

電話の主の女性が、小説の応募作品が最終選考まで残ったという報告でした。彼女は漫画も描いていましたし、これからも書いていくと言っています。

私にできなかったことを、寺子屋時代の教え子がしていてくれているということは、嬉しいですね。

そういえばもう一人、数年前の話ですが、小説の選考会で最終選考に残った教え子がいて、一冊にした本を送ってくれています。

寺子屋の教え子は、8人にも満たない人数でしたが、その中の二人が小説を書いていて、最終選考まで残っているということは、なんだか嬉しいです。

自分が果たせなかった夢を、引き継いでもらっているような気がします。

2月の幕開けは、そんな嬉しい幕開けでした。

皆さま、明日は雪かもしれないそうです。風邪にはお気を付けくださいませ。

*箱好きのルナちゃん、机の上は乱雑ですが、編集の仕方が分からないので、雑然のまま失礼。

 


終末期医療を止めよう

2025-01-29 13:13:43 | Weblog

㋀29日(水)晴れ【終末期医療を止めよう】

今朝、友人のご葬儀に参列してきました。真言宗の檀家さんでしたので、ご住職の素晴らしい声明に掌を合わせつつ、彼女の冥福を祈らせていただきました。

しかし、最後のお別れで御花入れに参加させていただいたとき、「お母さんの顔は全く変わっています」と娘さんに言われて、お棺の中の友人の顔を見た時、(どうしたの、この顔は)とびっくりしてしまいました。

ほっそりとした可愛らしいお顔の女性でしたが、それこそ風船のように膨らんでしまったお顔で、全く別人のようなお顔になってしまっていました。

娘さんが言われるには、心不全で倒れて以来、話も全くできない状態で意識もなく、10日の間、何回か危篤状態になったのだそうだそうです。

その間、お小水がでないので人工透析、輸血、心臓を活性化させる点滴、など等の医療を施されてしまい、顔がどんどん膨らんでしまったのだそうです。

あきらかに死期が迫っている人に、意味のない終末期の医療を施す必要があるのでしょうか。

私は自分の母を病院ではなく、母の自室で看取りまして、一切の管はつながないで、あの世に送ることができました。元気な時に延命治療はいらないということを、便箋に一枚書いておいてもらいました。日付けと印鑑は大事です。

皆さん、あきらかに死期が迫って、あの世に帰るときは、「延命治療はのぞみません」の一筆を書いておかれてはいかがですか。私もそうします。

あの世に帰って、六年前に帰っている仲の良かったご主人に会っているかもしれません。そのお顔は治療される前の可愛いお顔に戻っていると思います。冥福を祈っています。


後継者という課題

2025-01-26 10:35:40 | Weblog

㋀26日(日)晴れ【後継者という課題】

23日は京都、24日は福井の永平寺に行って参りました。

京都は、或るお寺に昔からの友を後継者として、おいていただけないかというお願いです。

永平寺のほうは、当寺の跡取りとしてどうかと、修行にだしている弟子に面会です。

この二件は同じ後継者の件ですが、立場が逆です。

後継者を探してと、頼まれていないお寺に、お願いに行くのですから、こちらの要望をはじめからいろいろと申し入れることは、おかしいと思っています。

私がこの老師なら、信頼できるという方を紹介しているのであり、このお寺なら修行ができるだろうという「場」なので、紹介している、という思いがあります。

受け入れてもらえるか、そして本人がそこで勤まるか、双方が決めることですが、お任せしたいと思いますが、身一つでその場で勤める覚悟が無ければ、後々不満が生じるでしょう。

永平寺で修行している弟子のほうは、こちらが後継者にどうかと、と思っていますので、こちらの受け入れの条件を提示しなくてはなりません。

それを受け入れられれば、将来の後継者として、受け入れますが、そうでなければ、残念ですが、後継者としては難しいでしょう。

私はへつらったり、懇願するつもりは全くありません。

本人次第です。今は出家する人が少ないですから、大事にしたいとは思っていますが、本末転倒するようなことは避けなくてはなりません。

話の分かる人間ではありたいですが、甘い考えですと、私が任されたこのお寺にとって将来良からずと思いますので、しっかりしたいと思っています。

そんな課題があると分かって帰ってきた面会でした。

今日は珍しく法事の無い日曜日で、ご祈祷不参加の方々へのお札配りの作務の続きをします。この作務もお手伝いの方々に助けられています。

ほぼ10年お手伝いに来てくれている人達がいますので、まことに有難いと思っています。

京都もどこも観光はできませんでした。永平寺もどこもお参りはできませんでした。疲れた、と言いたいところですが、氣を奮い起こしましょう。

皆様も寒いでしょうが、風邪やインフルエンザにはご注意ください。

 

 


地球人の使命と可能性 木内鶴彦

2025-01-22 11:31:06 | Weblog

㋀22日(水)晴れ【地球人の使命と可能性 木内鶴彦】

木内鶴彦さんのご冥福を祈り、冥界でのさらなるご活躍を祈っています。2025年12月1日 臨死体験ではなく実際に帰還なさいました。

昨日『生き方は星空が教えてくれる』(サンマーク文庫2015年初版)を読み終わりました。このところ忙しくしていまして、本に向かい合う時間がなかなかとれませんでした。

木内先生に関しては前にも当ブログ内でご紹介したかもしれません。

木内さんは、22歳の時実際に心臓が30分ほど停止していたそうですが、その間、意識体となって臨死体験をなさったことは、YouTubeでも紹介されています。

その後中国に星の観測会を開いた時にも、臨死体験なさったそうです。

もう一度は、忘れました。

木内さんは彗星捜索家としても世界に知られています。

子どものころから星に興味を持って、その頃望遠鏡は簡単に手に入りませんでしたので、虫メガネなどを使って自分でつくり、自分だけが星を見て喜ぶのではなく、友人や大人たちにも星を見る楽しさを分かち合ったそうです。

やがて長じて、航空自衛隊に入ります。その後のことかもしれませんが、米軍の軍人たちとの会合の時、軍事的に利用されているインターネットの機能を一般人にも開放するべきであることを提案してくれましたので、現在、私たちが自由にインターネットを利用することができているのだそうです。

木内さんは、辛抱強い星の観測を長年続けまして、「KIUTI」と名のつけられた彗星は3個と名前は付けられていませんが、重要な彗星を一個見つけています。

それがスウィフト・タットル彗星で次に地球に接近してくる2126年には地球にぶつかるか、非常に接近してくる可能性があるようなので、かつてメキシコ湾に巨大隕石が落下して恐竜が絶滅したと言われていますが、同じようなことが起こらないとも限りません。

また私たち地球人が住む太陽系は、銀河の中の有る星に向かって旅をしているそうです。その星の名は「ベガ」(七夕の織姫星)だそうで、23万5千年後、太陽系はベガ系に接近するのだそうです。

その時何が起きるのでしょうね。

太陽系も宇宙を旅しているのですね。

なんとも不思議なことですが、木内さんのように宇宙の星々に興味を持ってくださる人がいて、このようなことも分かります。

地球を大事にしましょう。人類という生物の為だけではなく、猫や犬やゴリラやクマやカラスやアリや、あらゆる地球上に生きる生物の為にも、桜や紅葉やバラや椿や白菜やダイコンや枇杷の木やホウレン草やニンジンやお米や、全ての植物や野菜の為にも、この地球というガイアが生き物なのだということを実感して、今現在この地球に生きている人類には責任があります。

自然の生態系を自分勝手に壊しているのは、人間です。

地球上の生物が滅亡する時が来るかもしれませんが、それまで、丁寧にこの地球を使わせていただきたいものです。

戦争などしている場合ではありません。大宇宙の真理を知れば、もっと楽しくこの地球で遊ばせてもらえるでしょう。

ということで、今日はこの辺で。

木内先生がお書きになったことと、違っているかもしれませんが、興味の有る方は、木内鶴彦さんの著書をお読みくださいませ。


めまいとアース

2025-01-21 16:55:19 | Weblog

㋀21日(火)曇り【めまいとアース】

私が、J.comの無線によって、ひどいめまいに襲われたことを知った電気会社の社長さんが、アースをつける工事の手配をしてくださいました。

昨日、かねて安くなったら書庫と本堂の廊下にエアコンをつけたいと頼んでおきましたので、その工事を兼ねて電気設備の会社の方々が、あちこちのエアコンの室外機にアースを取り付けてくださいました。

社長さんもわざわざ遠方から来てくださいました。

こうして友人たちの援けを受けながら、生きています。

誠に有難いことだと思います。

今日あらためて建物のまわりをまわってみまして、あちこちに付けられた緑のアース線を写真に撮らせていただきました。

あらためて多数の室外機が設置されていることがわかりました。写真は一部ですが、この頃の亜熱帯の暑さを回避するために贅沢なようですが、あちこちにエアコンを設置しています。

これ等のアースが付けられていませんでしたので、人間の体は帯電しますから、ひどい眩暈に襲われてしまったのです。

皆様も何となく不調、という方がいらっしゃいましたら、建物内の電気製品のアースはどうであるか、ご点検くださいませ。

今日は寒いです。暖房の援けを借りています。灯油ストーブで姉の住んでいる近くのお家や3件ほど全焼、延焼など火事の話も聞きました。私も今は灯油をやめて、電気に頼っています。

いつまで電気を使える時代が続くかわかりませんが、今は有難くこの楽な冷暖房を享受させていただきます。

明日のことはわかりませんが。

先の先を考えても仕方がありませんし、決して悲観主義ではありませんが、お気楽でもありません。

寒いですし、インフルエンザが流行っています。どうぞ、くれぐれも健康にご留意ください。なんと、一月も、はや下旬になりましたね。

 

 


終活は整理整頓

2025-01-20 21:55:47 | Weblog

㋀20日(月)晴れ【終活は整理整頓】

この頃は、「断捨離」ということをよく聞きますが、私はどうも思い切りが悪く、紐さえとっておくという保存魔です。

こうなったら「断捨離」より「整理整頓」だと決めました。

いつ何時、私があの世に飛んでいってしまっても、場所ごとに後片付けの人をお頼みしておいて、さっと捨てていただければと思います。

始末には、大きなものはお金がかかりますので、そんなことも勘案しておいて、「整理整頓」いたしましょう。

*これでも整理整頓した食料倉庫です。これで、私には十分に整理整頓できたと思えているのですから、おめでたいでしょうか。この棚板の移動がか弱い力では、かなり大変で金づちを使ったりして、工夫しました。とにかく物が多いです。

やはり「断捨離」でしょうか?

 


新年祈祷会

2025-01-17 16:52:25 | Weblog

㋀17日(金)晴れ【新年祈祷会】

今から30年前のこの日、午前5時46分に、阪神・淡路大震災が起きました。本師とともに大雄山にいた時、早朝テレビの報道で知りました。震災に遭遇された皆様に、あらためて哀悼の意を表します。

さて、一昨日、当寺の新年祈祷会を開かせていただきました。

毎年三が日の間、檀家さんの幸せを願い、祈祷札に念を込めて祈祷しています。『理趣分』という長いお経をお唱えをして、それぞれの祈祷札に三回念をこめるのが私のやり方です。

しかし、暮れからお正月にかけて、いつも忙しく、ゆっくりとお正月を味わうという感じがありませんので、そろそろ終わりにさせていただこうか、という弱気を起こしかけているのですが、

「この世の人々の幸せと、あの世の人々の幸せ」を願うのが、私の役目、と自認していますので、やはりやめるわけにはいきません。

住職が、どれほどに気を入れているか、檀家さんたちにわからないかもしれませんが、私にはわかっています。

しかし、皆さん、大変でしょうから、参加しなくてもよいですよ、とお知らせしておいたのですが、ほとんどの檀家さんが参加なさいました。

このお寺の檀家さんは、実に真面目だと感心してしまいます。檀家さんに恵まれていますので、私でもなんとか住職を勤められてきました。

法話は三回に分けて勤めさせて頂きました。今日は少し疲れていましたが、郵便局まで、歩いていきました。5200歩歩きました。ほどよいでしょう。

年相応に、程よく生きてまいりたいと思っています。

皆さまも、それぞれの御いのち、程よくお大事に、今年もよろしく。

報恩に生きよう 

楽しく生きよう

生かされよう

なにがあっても、ね

*ムックが帰ってきました、よかったです。かなりけがをしていますが、かさぶたになっています。