古聖既然今人盍弁 不可思古人已に然じや如是為法捨身命、今日の人は名目斗り達磨門下の子孫と称せられて盍に禅定三昧の道を弁得せぬぞ、次の句
まず、この一節は巨海禅師の見解だと見て良い。そして、古聖(釈尊と達磨)を顕彰しつつ、江戸時代末期当時の禅僧達の不甲斐なさを糾弾している。これは、面山禅師『普勧坐禅儀聞解』の見解とほぼ同じだが、言い回しが少し異なっている。巨海禅師の言葉は、現代の我々もしっかりと受け止め、自ら実践する必要があるといえる。
所以須休尋言逐語之解行 此一段は日本も是迄は只教者論師斗り故、皆文字言句を尋回り妄分別の解了のみ夫を休よとなり、なぜなれば証道歌に尋経論不知休入海算沙徒自困、此れ義学教者の草履取をして真正参学の近道を知ぬと勧られたは一極の悲心じや
こちらは、『聞解』とほぼ同じで、それを略したものといえる。『聞解』では『証道歌』と『華厳経』を引いているが、巨海禅師は前者のみとし、しかも、その態度に対して「義学教者の草履取」という非常に分かりやすい批判をしている。また、いくら文字を数えたところで、「真正参学の近道」には至らないことを示している。本当に、文字の学びとは、あくまでも自らの境涯を確認するためのものであって、修行もせずに新たに境涯を得るためのものではない。
須学回光返照之退歩 文字言句の葛藤を放下して自己の光明蓋天蓋地とは何の処のことぞ、脚下ゑ退歩して見よ、青山本不動白雲自去来じや、勿差過すること
「回光返照」や「退歩」といった、『普勧坐禅儀』における修行の態度に直結する言葉が見られる重要な場所だが、意外と解釈は短い。「回光返照」について、「自己の光明蓋天蓋地とは何の処のことぞ」と言い直しているということか。そう受け取れば、「脚下ゑ退歩して見よ」という説示が意味が分かる。要するに、外に向かって自己の光明を求めるのではなく、どこまでも脚下で把握すべきだといえよう。
また、「青山本不動白雲自去来」は字句として、それぞれ「青山元不動」と「浮雲自去来」の方が一般的だと思う。なお、先の10字全体の典拠は分からないが、「青山元不動白雲自去来」であれば、通幻派の普済善救禅師の語録に見られるようなので、その辺を参照されたものか。静と動について、誤ること無く把握することをいう。
ということで、幾らか読み進めたが、今月中に最後まで読んでいきたいと思っている。
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