大乗仏教の菩薩の誓願には、必ず一切の衆生を救うという「慈悲」の心が伴っている。そこで、よくよく考えてみると、「慈悲」と一口でいうけれど、本来「慈」は「友愛」という意味に近く、他の者に楽を与えること(与楽)であり、「悲」は他の者の苦しみに同情し、苦しみを抜くこと(抜苦)である。そうなると、現在「慈悲」と言われる事態には、似ているけれども全く内容が異なる2つの意味が入り込んでおり、しかも、特に「抜苦」だけが強調されているように思う。 慈悲の精神の中に、本当に他を喜ばせる意義があるとすれば、もっと葬儀にしろ法事にしろ楽しくて良いはずだし、真面目一辺倒でなくても良いはずだ。「慈悲で笑いの施しを!!」拙僧なんてついついそう思う。問題は、そう書いているこの文章自体が全く笑えないことである。 この記事を評価して下さった方は、を1日1回以上押していただければ幸いです。