伝教大師、像法の末に御出世あり。叡山に円頓戒壇を立て、法華・梵網の大乗戒を弘め玉へり。是専ら末法の為也。具に顕戒論等を見べし。何ぞ末法なればとて、妄りに戒律をそしらんや。
『真迢上人法語』
真迢上人(1596~1659)であるが、江戸時代初期の天台真盛宗の僧侶である。元々は日蓮宗であったが、後に同宗に転宗した。天台真盛宗とは、念戒一致を主張して、持戒しながら往生を目指すという教義となっている。よって、その教義からすれば、戒律・持戒の特長を主張するのは当然ではある。そのため、以上のような評価があるといえる。
ここでいわれているのは、伝教大師最澄の讃歎である。上記では、伝教大師は像法時代の末期に、この世で活躍されたという。比叡山に「円頓戒壇(一般的には大乗戒壇)」を建てられたという。ただし、厳密には最澄の在世時には契わず、死後直ちに許可されたという経緯はある。
それから、「法華・梵網の大乗戒」という語句には注意を要する。これは、天台宗の円頓戒は、ただの『梵網経』のみに依拠する菩薩戒では無く、『法華経』の一乗思想を踏まえた上での菩薩戒なのである。そして、おそらくは日蓮宗の教義も知っていたであろう真迢上人は、これをもって「末法の為」だと評している。
この辺は、日蓮聖人の教えを見れば、『法華経』は末法の衆生のために説かれたものだとされているので、その辺の教えを会通させたものだろうか。
なお、この一節では、『顕戒論』を参照すべきように説き、末法であっても戒律を謗ることは無かったとしているのだが、この辺、同時代的にも広く認められた見解だったといえるのだろうか?それこそ、日蓮聖人も引用された伝・最澄『末法灯明記』では、持戒を否定しているわけである。
つまり、真迢上人は伝教大師の著作として、『末法灯明記』を認めていたのかどうか、疑問が残るのだが、同じ法語に以下のようにあった。
乃至、此灯明記も諸経の文によれり、根本大師の私に非ず。又学生式・顕戒論等も、諸経の文によれり、山家大師の私にあらず。然るに灯明記には、末法無戒の義を釈し、学生式等には、末法の持戒・坐禅・住山の義を判じ玉ふ。一師の両文不同なることは何ぞや。学者よくよく了知すべし。管見を以て一隅を執ずることなかれ。凡そ灯明記は在家の衆の為也。末法に無戒の比丘多かるべし。さやうの無戒の僧をも、誹謗すれば罪障をえ、供養すれば功徳をうるが故に、在家の衆をして時の運を知り、無戒の出家をそしらざらしめんが為に、強て末法無戒の義を判じ玉へり。経文も其意也。
同上
これは、『末法灯明記』を最澄の著作だと認めつつも、しかしながら、『顕戒論』などとの矛盾を、どうにかして会通させようとした努力だといえよう。しかも、上人の『法語』は、多分に出家者向けであるため、上記のように『末法灯明記』に、持戒を否定するような文脈が出ていても、それを僧侶の立場で受容することは出来ないとしたわけである。
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