そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。
毫釐有差天地懸隔、違順纔起紛然失心 此語は信心銘に出たり、毫――とは譬は弓射者の、手本で一分ちがへば的で一丈ちがう如く口で斗り道本円通なぞと云ても、自心の圿に兔の毛ほどでもちごうたら、此仏祖単伝の妙旨の的には天と地ほどすつてちごうぞ、宗乗自在とは言れぬ、又違順――とこう云たら違どふ言たら順で有ふ乎と纔か少でも順逆の沙汰をして、分別の坑に落たら早や非思量の本心を失却するぞ、口と心と相応する乎、どうじやゝゝゝゝ、と一と詮義して療示致したは、流石は妙手段じや、
直饒誇会豊悟兮、獲瞥地之智通、得道明心兮、挙衝天之志気 格外に達見の人は少ないものじや、直饒ひ有た処が少の星光りをちらりと見たと云ものじや、夫れを面に出て知見解会に誇り、夫れを大悟じやと腹を豊にふくらかすは、可笑ゝゝ、又得道明心などゝ上気る族らも有乍然星光りても見付さいぬれば、千里の行も始一歩一向に蛍火も見たも暗黒房で臨済徳山をまつなるは可笑ゝゝ、
4丁表~裏
まず、「毫釐有差天地懸隔」は註釈の通り、『信心銘』の語句であるが、『聞解』でも指摘されている。それで、「手本で一分」云々も『聞解』からの引用である。ただし、「口で斗り道本円通」などと言ってもという部分などは、巨海禅師の註釈である。「違順」の箇所も、巨海禅師独自の見解と思われ、「非思量の本心」という言い方は、本書の「本心」の位置付けを端的に知ることが出来る。そして、末尾の「妙手段」というような言い方は、巨海禅師による道元禅師の言葉への評価である。
「誇会」以下の註釈は、ほとんど『聞解』である。この辺からは段々分かってきたが、『聞解』を横に置いて見つつ、巨海禅師の見解に沿うように言葉を繋げたものと思われる。ただし、『聞解』からインスピレーションが得られたような場合は、言葉をより多く繋げていて、「乍然星光りても見付さいぬれば、千里の行も始一歩一向に蛍火も見たも」の部分は、独自だろうと思われる。
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