つらつら日暮らし

『払惑袖中策』巻中「第十三弁一乗戒」について

個人的に、「一乗戒」という用語が気になっている。この用語は、(おそらくだが)漢訳仏典や、中国成立の仏書には見られないものと思われる。しかし、日本の天台宗などの文献では、見られる用語であるので、それを記事にしておきたい。

  第十三弁一乗戒
 問う、大論に云く、諸仏、多く声聞を以て僧と為す。別の菩薩僧無し。弥勒菩薩、文殊師利菩薩等の如きは、釈迦文仏に、別の菩薩僧無きを以ての故に、声聞僧中に入りて、次第に坐す。
 而も何ぞ天台、別に戒壇を結んで、梵網の戒を授け、菩薩僧と名づくるや。
 又、経の説に云く、若し、優婆塞戒・沙弥戒・比丘戒を受けずして、菩薩戒を得て、是の処、有ること無し。譬えば重樓の初級に由らざるに、第二級を得ても、是の処、有ること無きが如し。
 亦た何ぞ天台、律儀の戒を経ずに、越えて菩薩大乗の戒を受くるや。大小の発心、異なりと雖も、彼此の律儀、則ち同じ。故に別して菩薩僧と名づくべからず。
 答う、他は曾て四種の菩薩の別を分かたず。是の故に、但だ三乗共持の律に執して、別円大乗の戒を信ぜず。固く別の菩薩僧の名無し。応に知るべし、引く所の大論の文は、且く蔵通二教の意を述するの故に、妙楽の釈籖に云く、蔵通の両経には、別に衆を列ねず、但だ出家の者は、出家の二衆在り。在家の者は、在家の二衆在り。
 故に知りぬ、還た小乗二衆の律儀次第に依ることを。
 是の故に、二教には別の菩薩戒無し。
 故に大論三十八に云く、釈迦、別の菩薩衆無きを以ての故に、弥勒・文殊、声聞中に在りて、次第に而も坐す。
 又た、籤の文に云く、前の二教、三乗共行し、別円の両教、梵網を専らにす。若し出家の菩薩は、全く白四を用いて、而も護他と無為し、加えて六夷を制す。小と異なるのみと。
 又た、大論の次の文に云く、仏有り、一乗の為に説法す。純ら菩薩を以て僧と為す。若し爾らば、今、仏、既に一乗の機の為に、華厳・法華等の諸大乗経を説く。何の故に、菩薩を以て僧と為さざらんや。故に知る、天台、別円大乗の義に依りて、梵網の戒を持し、別に菩薩僧の名を立つるのみ。若し紆迴の菩薩を論ぜば、次第に応に諸戒を受くべし。若し直往の菩薩を論ぜば、未だ必ずしも具に諸戒を禀けず。
 故に義寂師の戒経疏に云く、
 問う、人有りて、必ず先に声聞戒を受けて、後に菩薩戒を受く。是の義、云何。
 答う、未だ必ずしも然らざるなり。何ぞ菩薩必ず先に小心を起こして、然る後に大乗に入るを容れんや。然るに経に、重楼の譬えを挙ぐるは、要するに律儀を依止と為す故に、方に後の二を得るに由る。
 故に是の説を作す。太賢師の意、亦た此の釈に同じ。何を以てか紆迴の棘、直往の路を塞がんや。
    『払惑袖中策』、『伝教大師全集』巻3(比叡山図書刊行所・1927年)所収本を参照しながら訓読


残念ながら、当方にはこの文献の書誌学的見解を論じるだけの知識が無いので、ここではただ、上記の内容のみを紹介しておきたい。なお、『伝教大師全集』に入っているのだから、最澄の著作だという伝承もあるのだろうか。あれ?吉川弘文館人物叢書の田村晃祐先生の『最澄』、どこかの本棚に入っていたような気が・・・あったので見てみたが、この『払惑袖中策』については特に言及が無かったので、やはり後代の文献なのだろうな。

さて、上記の文章で問題にしていることは、大きく述べれば以下の2点である。

①僧は基本、声聞であるべきなのに、何故(日本)天台では菩薩僧を置いたのか。
②声聞戒を受けてから菩薩戒を受けるべきか。


まず、①についてだが、「仏有り、一乗の為に説法す。純ら菩薩を以て僧と為す」を典拠として、菩薩僧を置く根拠にした様子が分かる。なお、典拠は『大智度論』巻34「世界義第五十一之余」となっている。上記一節では引用されていないけれども、この典拠は、前後の文章を一緒に読んだほうが分かりやすい。

諸仏多く声聞を以て僧と為すも、菩薩僧と別すること無し。弥勒菩薩・文殊師利菩薩等の如し。釈迦文仏以て菩薩僧と別すること無きが故に、声聞僧中に次第に坐する。仏有り、一乗の為に説法す。純ら菩薩を以て僧と為す。仏有り、声聞と菩薩と雑して以て僧と為す。阿弥陀仏国に菩薩僧多く、声聞僧少なし。是れを以ての故に願わくは無量の菩薩を以て僧と為さんことを。
    『大智度論』巻34「世界義第五十一之余」


以上の通りなのだが、要するに、仏陀によっては、声聞が多い場合もあれば、菩薩が多い場合もあるけれども、この一節の最終的な誓願としては、無量の菩薩を僧にしたい、ということであった。つまり、この一節は、どうあっても大乗菩薩僧を中心に考えているのである。阿弥陀仏国(西方極楽浄土)の話が出てくるのは大変に興味深いところではあるが、浄土三部経などを見てみても、普通に浄土には声聞もいるようなので、あくまでも程度問題ということか。

続いて②であるが、「問う、人有りて、必ず先に声聞戒を受けて、後に菩薩戒を受く。是の義、云何」という問いが提出されている。答えとしては、「答う、未だ必ずしも然らざるなり」としつつも、具体的に菩薩戒のみで良いという見解の根拠を出せているわけではない。そして、「重楼の譬え」についても、微妙なところではある。

これは、『菩薩善戒経』で示される教えであるが、優婆塞戒を受けない者が沙弥戒を受けても意味が無く、沙弥戒を受けていない者が比丘戒を受けても意味が無いように、比丘戒まで受けていない者が菩薩戒を受けても意味が無いことを以下のように示している。

譬えば重楼の四級に次第するが如し、初級に由らざるに二級に至る者、是の処、有ること無し。二級に由らざるに三級に至る、三級に由らざるに四級に至る者、亦た是の処無し。菩薩、三種の戒を具足し已りて、菩薩戒を受けんと欲す。
    『菩薩善戒経』巻1「優波離問菩薩受戒法」


ただし、この譬えについても、『払惑袖中策』では「律儀を依止と為す」とし、おそらくは比丘としての基本を学ぶ程度の位置付けをしているようである。つまり、声聞戒を受けたから「小心」、という話にはなっていないという話をしてみたいのかと推定される。ただ、かなり無茶をしている印象で、むしろ、先に挙げた『大智度論』の一節が一番良い典拠のような気がする。

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