天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

お朝事

2010-09-02 14:06:29 | 天真寺
毎週日曜日は朝七時から日曜礼拝があります。

今回の担当は坊守。
ご和讃は、南無阿弥陀仏をとなふれば(浄土和讃)
御文章は、無上甚深章でした。

お参りの後のお茶会があります。
その様子を撮影しました。。



世間話・仏法話をする大切な時間です。
今回は鳥取県青谷、妙好人源左さんのお寺に行かれたとお話を聞かせて下さいました。
そこで撮影された源左さんの写真も持ってきて下さいました。

源左さんの写真です。



上の写真の源左さんは「ようこそ ようこそ さても さても」が口癖だったと言います。




源左さんにまつわるこんなエピソードがあります。(妙好人をたずねて 本願寺出版より)

源左の本名は足利喜三郎。五人兄弟の長男で、父は善助。母をちよといった。
彼は15歳になった時、村の習慣に従って源左衛門と自称した。それを略称して、のちに”源左”とよばれたものである。

源左が18歳になった安政6年、父善助は、俗諺に”三日コロリ”といわれたコレラに感染して、若くして急逝した。安政コレラ大流行のさなかである。

善助は臨終にあたって「おらが死んだら親様タノメ」と言い残したという。
(”親さま”とは・・・)(”タノメ”とは・・・)と、この時から、この二つの問いをかかげて、源左の昼夜をわかたぬ聞法が始まった。だが、聞けど聞けども、わが疑いをはらすことができない。こうして苦しく判らぬまま、十余年の歳月が流れていった。

ある年の夏、朝草刈りに出かけた源左は、刈り上げた草を牛の背に背負わせようとした時に、”ふいっと分からしてもらった”のであった。思えば、長い間の自力のはからいであった。・・・・”ふいっと分からしてもらった”源左は、つねづね「デン(牛)はおらぁの善知識だいなぁ」と語っていた。



上記の源左さんとデンのエピソードについての柳宗悦氏による解説。
草は人間の業、牛は阿弥陀如来にたとえます。源左の負いきれぬ業を背負って下さる阿弥陀如来。そうして、不思議にも、その背負う草が牛を牛にする糧であるように、背負う業は如来が如来となるためなのです。源左はハタとこのことに思い当たり、ここが他力の教えかと気づかせてもろうに至りました。


この源左さんの生涯は苦難にみちていた。若くして父善助に死別し、子どもらにもすべて先立たれた。また二度も火災にあって、家財を失い、偽られて田畑を売り払う事態にもたちいったこともある。その苦しい時も、彼は絶望し逃避する道を選ばなかった。愚かな自分に目覚めよとのご催促ご意見と受け止めて、苦難が”ようこそ ようこそ”と、そのまま大いなる感謝と転成してゆく生き方を選びあげていった。


思い通りにならない現実にぶつかると、逃げ出そうとする私がいます。
源左さんは、そんな私に、ただ現実から逃避するのではなく、「愚かな自分に目覚めよとのご催促」と「ようこそ ようこそ」と受け止めていかれる道があると後ろ姿で教えてくれます。それは同時に、苦悩こそが私の人生を輝かしてくれる大切なものであることを教えられます。

(龍)