昨日は少し肌寒い風が吹く、晩秋らしい一日。
ご門徒さん方とご一緒に、築地本願寺で勤まる報恩講にお参りに行って来ました。
報恩講は真宗門徒にとっては一年で最も大切なご法要。
ですから参詣者も多く、お内陣のお飾りも華やかで、いつもよりお寺に活気を感じます。
私たちは午前中の日中法要に参拝し、大分県の藤井邦麿先生のご法話をお聴聞させていただきました。
親鸞聖人のご生涯を思うと、本当に大変なご苦労の一生であったと味あわせていただくとともに、厳しいなかを求められたみ教えが、今この私に伝わり出遇えたという感謝の思いも新たにしました。
皆さんと共々にお参りさせていただき、ありがたいご縁となりました。
明日は通夜布教。
若住職がご法話をさせていただきます。
朝4時からの出番にも関わらず、ご門徒さん方が応援したいからとお参り下さるとのこと。
皆さんご年配でいらっしゃるのに、夜中を通してまでご参拝下さるというんですから、頭が下がります。
本当にありがたい限り。
ちゃんとお取り次ぎできるかどうか心配ですが。。うれしいご縁です。
(静)
ご門徒さん方とご一緒に、築地本願寺で勤まる報恩講にお参りに行って来ました。
報恩講は真宗門徒にとっては一年で最も大切なご法要。
ですから参詣者も多く、お内陣のお飾りも華やかで、いつもよりお寺に活気を感じます。
私たちは午前中の日中法要に参拝し、大分県の藤井邦麿先生のご法話をお聴聞させていただきました。
親鸞聖人のご生涯を思うと、本当に大変なご苦労の一生であったと味あわせていただくとともに、厳しいなかを求められたみ教えが、今この私に伝わり出遇えたという感謝の思いも新たにしました。
皆さんと共々にお参りさせていただき、ありがたいご縁となりました。
明日は通夜布教。
若住職がご法話をさせていただきます。
朝4時からの出番にも関わらず、ご門徒さん方が応援したいからとお参り下さるとのこと。
皆さんご年配でいらっしゃるのに、夜中を通してまでご参拝下さるというんですから、頭が下がります。
本当にありがたい限り。
ちゃんとお取り次ぎできるかどうか心配ですが。。うれしいご縁です。
(静)
先日渋谷「花のえん」にて開催された、アーユス主催の「ブラウンボトルトーク」に姉と一緒に参加してきました。
今回のテーマは、「ホームレス」。って誰?
ゲストは、浄土真宗僧侶・赤川浄友さんとルポライター・北村年子さん。
赤川先生は、以前天真寺にご講師として来られていた花山勝友さんのお弟子さん。
元堀越学園の先生であり、笑い療法士と言う肩書きをお持ち。
パワフルに、そして興味深くお話をまとめて下さいました。
北村年子さんの現場の経験から、「ホームレス」の人々との関わり合いを中心にお話が進められました。
「ホームレス」という言葉で何を想像しますか?
公園で生活をしている人、テント生活をしている人、毎日の食べ物に困っている人・・・
北村先生いわく
「ホームレス」とは、野宿生活者や路上生活者という”人”をさす言葉ではなく、
安心できる居場所や家がない”状態”をさす言葉であるという。
立派な家に住んでいても心が安らげない人はホームレス
たくさんの友だちに囲まれていても本当に心を許せる相手がいない人もホームレス
自分の関係のないどこか遠くの話ではなく、身近なことなのだ。
北村さんが、こんな話を紹介して下さった。
学生達と野宿労働者の方に炊き出しのボランティアをされた時のこと。
炊き出しが終わると、ある学生が涙を流しながら帰ってきた。
野宿労働者の方が、素手で炊き出しを差し出したその学生に、
「手冷えるやろう、寒かったろう。」と自分の軍手を差し出してくれたという。
そんな優しさにふれて、言葉にならない思いがこみあげてきたのだろう。
自分になくとも人を思いやれる、これはなかなかできないことです。
富や名誉や地位の衣がはがれた時にあらわれる、人間の本質が見えてくるような気がします。
北村先生が、
人と人とが互いに「弱さ」を助け合い、共に生きていくことの大切さについてもお話されていた。
お釈迦さまは「自らの姿をみつめる」ことの大切さを説かれています。
それは「自らの弱さ」も含めてであります。
弱いからダメ、という現代的な割り切り方ではないのです。
お互いが持つ弱さも悲しみも分かち合い、つながり合い共感できる世界。
それがまさに仏さまの世界です。
私たちは自分では想像もできないくらい、実は広くて大きくてダイナミックな世界に生きているんだ、ということを仏教を通して聴かせていただくことが必要なのではないかと感じました。
ホームレス問題も、決して人ごとではなく、全て私とつながったこの世界で起きていること。
だからこそ、その痛みをつらさを知り、共感することが必要なのです。
私にはまだまだできていないと、自問自答をしながら勉強させていただきました。
仏さまのこころを聴いて、さまざまな問題を考えていかなくてはいけないと改めて考えさせられたご縁でした。
(龍)
今回のテーマは、「ホームレス」。って誰?
ゲストは、浄土真宗僧侶・赤川浄友さんとルポライター・北村年子さん。
赤川先生は、以前天真寺にご講師として来られていた花山勝友さんのお弟子さん。
元堀越学園の先生であり、笑い療法士と言う肩書きをお持ち。
パワフルに、そして興味深くお話をまとめて下さいました。
北村年子さんの現場の経験から、「ホームレス」の人々との関わり合いを中心にお話が進められました。
「ホームレス」という言葉で何を想像しますか?
公園で生活をしている人、テント生活をしている人、毎日の食べ物に困っている人・・・
北村先生いわく
「ホームレス」とは、野宿生活者や路上生活者という”人”をさす言葉ではなく、
安心できる居場所や家がない”状態”をさす言葉であるという。
立派な家に住んでいても心が安らげない人はホームレス
たくさんの友だちに囲まれていても本当に心を許せる相手がいない人もホームレス
自分の関係のないどこか遠くの話ではなく、身近なことなのだ。
北村さんが、こんな話を紹介して下さった。
学生達と野宿労働者の方に炊き出しのボランティアをされた時のこと。
炊き出しが終わると、ある学生が涙を流しながら帰ってきた。
野宿労働者の方が、素手で炊き出しを差し出したその学生に、
「手冷えるやろう、寒かったろう。」と自分の軍手を差し出してくれたという。
そんな優しさにふれて、言葉にならない思いがこみあげてきたのだろう。
自分になくとも人を思いやれる、これはなかなかできないことです。
富や名誉や地位の衣がはがれた時にあらわれる、人間の本質が見えてくるような気がします。
北村先生が、
人と人とが互いに「弱さ」を助け合い、共に生きていくことの大切さについてもお話されていた。
お釈迦さまは「自らの姿をみつめる」ことの大切さを説かれています。
それは「自らの弱さ」も含めてであります。
弱いからダメ、という現代的な割り切り方ではないのです。
お互いが持つ弱さも悲しみも分かち合い、つながり合い共感できる世界。
それがまさに仏さまの世界です。
私たちは自分では想像もできないくらい、実は広くて大きくてダイナミックな世界に生きているんだ、ということを仏教を通して聴かせていただくことが必要なのではないかと感じました。
ホームレス問題も、決して人ごとではなく、全て私とつながったこの世界で起きていること。
だからこそ、その痛みをつらさを知り、共感することが必要なのです。
私にはまだまだできていないと、自問自答をしながら勉強させていただきました。
仏さまのこころを聴いて、さまざまな問題を考えていかなくてはいけないと改めて考えさせられたご縁でした。
(龍)
昨日のお出かけの途中に気が付きました。
駅近くの畑に野菜コインロッカーが出来ていたのです。
欲しい野菜が入っているロッカーにお金を入れて買うようです。
これを見てふと思い出しました。
数年前、大学院の研修旅行でサンフランシスコの禅センターに3週間程滞在していた時のこと。
そこでは、禅の行に励む人たち(主にアメリカ人)が、生活を共にし禅寺のような生活を営んでいます。
朝は早く5時起床。夜の消灯は10時。
規則正しい生活をし、食事はもちろんお精進。
昼間はそれぞれの仕事や学校へ通いますが、センターにいる間は朝夕と禅の時間があったり、頻繁に勉強会があったりと、まさに禅寺での修行生活です。
滞在中のある日、センターでの昼食の時間に隣のおじさんとお話をしました。
禅好き日本好きのそのおじさんは、空手を習っているからこれからお稽古なんだ、とのこと。
そして私に空手を習っていないのかと聞くのです。
私は経験がありませんから、そのように答えると、
「日本では自分で自分の身を守る必要がないんだな。
この前日本に行った人から、日本では野菜を無人で売っていて、お金を入れる箱が置きっぱなしになっているという話を聞いて、びっくりした。アメリカならすぐに壊されて盗まれてしまうのに。日本は本当に安全な国なんだね。」
と言われました。
家の近くでは、さらにそこに包丁が出しっぱなしに置いてあって、野菜を好きな大きさに切って買えるところまであるくらい。
それまで当たり前のように見慣れていましたから、言われてみて初めて安全さを再確認したような気になったことです。
けれど、最近では日本でも治安の悪化が問題となっていますし、自分自身でも日常に感じることがあります。
たった数年の間でも、アメリカ人のおじさんが感心した野菜の無人売りもすがたを消し、このコインロッカーが流行るようになるのかな~と、とても残念に思いました。
もしあのおじさんが日本に来たら、きっとがっかりするでしょうね。
野菜の無人売りも、その地域の人たちの信頼関係の上にできていたこと。
地域での人と人のつながりが薄れ、地域を守る目がなくなっていることを感じます。
目に見えてひとつひとつと、日本ならではのいいところもなくなっていってしまうんですね。
昔は地域の中心となっていたお寺。
現代のさまざまな問題が起こる中で、これからお寺がどんな役割を果たせるか、考えさせられたことです。
(静)
駅近くの畑に野菜コインロッカーが出来ていたのです。
欲しい野菜が入っているロッカーにお金を入れて買うようです。
これを見てふと思い出しました。
数年前、大学院の研修旅行でサンフランシスコの禅センターに3週間程滞在していた時のこと。
そこでは、禅の行に励む人たち(主にアメリカ人)が、生活を共にし禅寺のような生活を営んでいます。
朝は早く5時起床。夜の消灯は10時。
規則正しい生活をし、食事はもちろんお精進。
昼間はそれぞれの仕事や学校へ通いますが、センターにいる間は朝夕と禅の時間があったり、頻繁に勉強会があったりと、まさに禅寺での修行生活です。
滞在中のある日、センターでの昼食の時間に隣のおじさんとお話をしました。
禅好き日本好きのそのおじさんは、空手を習っているからこれからお稽古なんだ、とのこと。
そして私に空手を習っていないのかと聞くのです。
私は経験がありませんから、そのように答えると、
「日本では自分で自分の身を守る必要がないんだな。
この前日本に行った人から、日本では野菜を無人で売っていて、お金を入れる箱が置きっぱなしになっているという話を聞いて、びっくりした。アメリカならすぐに壊されて盗まれてしまうのに。日本は本当に安全な国なんだね。」
と言われました。
家の近くでは、さらにそこに包丁が出しっぱなしに置いてあって、野菜を好きな大きさに切って買えるところまであるくらい。
それまで当たり前のように見慣れていましたから、言われてみて初めて安全さを再確認したような気になったことです。
けれど、最近では日本でも治安の悪化が問題となっていますし、自分自身でも日常に感じることがあります。
たった数年の間でも、アメリカ人のおじさんが感心した野菜の無人売りもすがたを消し、このコインロッカーが流行るようになるのかな~と、とても残念に思いました。
もしあのおじさんが日本に来たら、きっとがっかりするでしょうね。
野菜の無人売りも、その地域の人たちの信頼関係の上にできていたこと。
地域での人と人のつながりが薄れ、地域を守る目がなくなっていることを感じます。
目に見えてひとつひとつと、日本ならではのいいところもなくなっていってしまうんですね。
昔は地域の中心となっていたお寺。
現代のさまざまな問題が起こる中で、これからお寺がどんな役割を果たせるか、考えさせられたことです。
(静)