感染症と新型コロナウイルスについて
令和2年4月8日(水)
伊能忠敬研究会東北支部長(元日本大学工学部講師・化学者)
松宮輝明
筆者の祖父は明治15年越後新潟の弥彦村の生まれ、上京し陸軍省の官吏(法務部・奏任官)になりました。父は明治41年、東京市板橋区板橋町6丁目822番(東京都板橋町)の生まれで豊島師範学校附属小学校(現東京学芸大学付属小学校)の学童でした。父が、付属小学校5年生の時に、スペイン風邪が日本全土に拡散し多くの人命が失われました。
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◎右より祖父、父(豊島師範小学校の制服)、叔母達
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大正7年の感染症スペイン風邪は、世界全体の推定感染者数は約5億人で死亡者は4500万名~5000万名とも云われております。。
当時の世界人口は18億人から20億人であると推定され、全人類の3割近くがスペイン風邪に感染したことになります。
日本では、当時の人口5500万人に対し約2300万人が感染したとされる。
世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅があります。
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◎アメリカ陸軍の野戦病院
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◎シアトルの警察
当時の日本の人口は、5500万人、全国でスペイン風邪に感染した人は約2300万人との報告があります。
スペイン風邪の各年の死亡者数は,
大正7年、男子34,488名,女子35,336名,計69、824名
大正8年、男子21,415名,女子20,571名,計41、986名
大正9年、男子53,555名,女子54,873名、計108、428名で合計220、238名が死亡しました。
日本においてはインフルエンザの死亡は冬季に多く発生しています。そこで,大正7年1月から大正9年12月までの死亡者数を月別に集計によると,スペイン風邪による死亡者のピークは,大正7年の11月と、大正9年の1月の2回であったことがわかります。
豊島師範付属小学校では、伝染病の対策は厳格でスペイン風邪にかかれば登校禁止でマスクの着用が義務づけられウイルスの感染を防ぎました。
また、トラホームの感染では学童の制服に黄色の腕章を付けさせ、トイレも区別して使用させたそうです。
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◎マスクをつける女性
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◎マスクをつける女性
陸軍省勤めの祖父の話によると「スペイン風邪では、東京では、火葬場が順番待ちの満杯で使用不能となり、池袋の原っぱで荼毘(だび)にした」と云われました。
スペイン風邪は、諸説がありますが、記録にある限り人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)なのです。
スペイン風邪の始まりは、大正7年、3月にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行しました。
次に、大正7年の秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増しました。第3波は大正9年春から秋にかけて、大正7年と同じく世界で大流行しました。
スペイン風邪の大流行は、最初に医師・看護師の感染者が多く感染し医療体制が完全に崩壊してしまったため、感染者の被害が全世界に拡大したのです。現在の新型コロナの感染に似た現象が100年前に起きておりました。
感染症(伝染病)は、微生物の病原体(マイコプラズマなどの細菌、スピロヘータ、リケッチア、ウイルス、真菌)がヒトや動物の身体や体液に侵入し、定着、増殖して感染をおこすと組織が破壊され、病原体が毒素を出し身体に害をあたえると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となります。また、伝染病(感染症)の流行を疫病(はやり病)と呼びました。
感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきました。感染症や疫病に関する記録は、映画「十戒」でエジプトのファラオの息子が厄病にかかり亡くなりました。
古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに「四災厄」のなかのひとつに数えられ、同時期のエジプトでもファラオの威光は悪疫の年における厄病神に比較されています。中国にあっても、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されています。
また、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではありません。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行しました。
歴史上知られている伝染病は、
明治8年(1875)、ハンセン氏病は、発見者が、アルマウェル・ハンセン(ノルウェー)です。
明治13年(1880)、マラリアは、 シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン(フランス)
明治13年(1880)、腸チフスは、 カール・エーベルト(ドイツ)
明治15年(1882)、結核は、ロベルト・コッホ(ドイツ)
明治16年(1883)、コレラは、ロベルト・コッホ(ドイツ)
明治27年(1894)、ペストは、北里柴三郎(日本)、アレクサンドル・イェルサン(フランス)です。
大正7年~大正9年 スペイン風邪
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◎北里柴三郎博士
アテナイのペストは、アテナイ全盛時代の政治家ペリクレスがペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年、篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリス、アテナイ(アテネ)を感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出しました。この疫病は、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれ、記録に残る症状の分析と検討により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス、あるいはそれらの同時流行と考えられており、ペスト説は否定されています。
なお、古代ギリシャ最大の民主政治家として知られ、アテナイにおいてペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの疫病で死亡しており、この戦争でのアテナイの敗北およびデロス同盟の解体を招きました。
14世紀の「黒死病」は、14世紀のヨーロッパで猛威をふるったペストは、感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれました。
カナダ出身の歴史家ウィリアム・ハーディー・マクニールによれば、「黒死病」は、中国の雲南省地方に侵攻したモンゴル軍がペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを中世ヨーロッパにもたらしたことによって大流行したものでと記しております。 西洋の貴族の女姓が舞踏会でドレスの胸元と背中を広く開け「黒死病・ペスト」ではないとワルツを踊ったと云われております。
黄熱病のウイルスは昭和2年(1927)に分離されており、野口英世は昭和3年(1928)、黄熱の研究中に英領ゴールド・コースト(現在のガーナ)の首府アクラで死亡しています。
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◎野口英雄博士
感染症のウイルスは、地球が誕生し、生命が誕生した時代より存在しました。生命体の進化(環境)により強力な毒性の強いウイルスに変化してしまいました。
環境の変化とは、急激な人口移動により風土病が一部地域に止まらず全世界に移動し拡散を続けております。
科学とウイルス生命体の戦いは今後も永遠に続きます。今後、ウイルスを放射線などで刺激し変化させないようにしなければならないと思います。
感染症の薬としてノーベル賞の大村智北里名誉教授が開発した抗寄生虫薬「イベルメクチン」が新型コロナウイルスに有効なようです。
新型コロナウイルスの抑制に効果があったとオーストラリアのモナシュ大学の研究チームから報告されております。
地球温暖化、二酸化炭素の削減、原発問題、新経済政策、医療体制の早期の再検討が望まれます。
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