焼き物の起源(縄文式土器)
宮城城県中田町には「東北縄文式土器記念館」がある。酒蔵を改良して作られた展示資料館で東北地方で縄文土器を見ることが出来る。
◎三内丸山遺跡
ついで紀元前300年から紀元300年頃まで作られていた弥生式土器は、縄文式土器に比べると文様も形もシンプルであるがその形状はさらに優美なもとなる。
(弥生式土器)
弥生式土器は1884年(明治17年)東京都文京区向が岡弥生町で出土した1個の壺が従来知られている縄文式土器と異なった形状のものとして注目し研究の結果弥生式土器として定義された。すなわち縄文式土器時代に後続し、古墳時代に先行する時代を弥生式時代と呼ぶようになった。こん時代には大陸から水稲耕作が伝えられ・金属の精練加工や紡織技術など高度の文化がもたらされた。
弥生式土器は壺・かめ・鉢・高杯などが主な出土品であるが、壺は球形・偏平で頸部が括れ再び口縁部が開いている。口縁部は水平なものが多い。壺には高さ数十センチのものから1メートルを越えるものまで有る。壺は各器種の中でもつとも飾られることの多い土器であるが、壺の用途は貯蔵であり、米・穀類・桃・貝などを入れた。
大型のかめは埋葬のための棺として転用された。
弥生式土器の装飾には沈文が多く見られる。箆描き文・沈線文(前期)・櫛描き文(中期)が多い。この他竹官文・貝殻文も有る。特種なものとしては器の表面に鹿・鳥・船・倉庫などを線書きした原始絵画も見られる。九州の吉野狩り遺跡での建物の原始絵画はとみに有名である。
弥生式土器の制作にロクロが使われたとの解釈は過去のものとなった。その制作技術は縄文土器の場合と同様粘土を輪積みにして成型したものである。しかし、機内地方を中心に前期終りから中期末にかけて、土器の形成・装飾に回転台を用い形跡が有る。
◎東北陶磁器会館
縄文土器は植物の葉の上に粘土を乗せ葉を回転させながら形を整えたものと思われる。弥生式土器の一部にロクロまでは行かないが木の板を用い回転出来る道具を工夫したのではないだろうか。
古墳時代になると前代の流れを組むはじきが作られ始め、しばらくして、大陸より渡来した人達によって新しい技術が伝えられ、奈良・平安・鎌倉時代にかけて全国各地で高温で焼くことが出来る窯とロクロの技法により、薄くしかも形のよい須恵器が作られるようになった。
須恵器とは5世紀から12世紀にかけてわが国で作られた陶質土器である。
始めて穴窯を用いたので、縄文や弥生式土器と違い高温を作り出すことが出来た。
およそ温度は1000度以上あり粘土が焼き締まり吸水性が少ない。この陶質土器の源流は中国殷時代に焼かれた灰陶の技法につながる。灰陶の技法は朝鮮半島に伝わり、5世紀始めには百済の地を中心に定着したものと思われる。まもなくその技法は新羅にと伝わり新羅焼きとなる。そして渡来人により日本に入り須恵器が誕生した。
須恵とは滋賀県蒲生郡竜王町須恵・日本書紀に垂仁天皇3年の条に見えている鏡谷の陶火との遺跡とある。また、須恵の地名は岡山県邑久群須恵町・福岡県粕屋群須恵町に見られる。いずれも須恵器の大窯業生産地である。
須恵器の用途は貯蔵用・供膳用・調理用・祭礼用などに分かれる。
◎須恵器高杯
須恵器の成型過程を見ると2段階に分けることが出来る。成型の1段階は、原則そして器の大小にかかわりなく、粘土紐を積み上げておおよその形を作る工程である。成型の2段階は、主として器の大きさに応じ成型技法が異なる。即ちかめなどの大型のものは輪積みにした粘土の紐のつなぎ目を叩き板を用い叩いて粘土を密着させる方法である。
◎須恵器
須恵器は、杯などの小型の器はロクロを用いて成型した。大型のかめ壺なども最終的には口作りにはロクロを用いて調整した。
須恵器を焼成した窯は、炊き口から煙出しまでトンエル状になった単室窯で炊き口から奥へ向かって燃焼部・焼成部・奥壁・煙出しと続く。窯本本体は完全に土中をくりぬいた地下式のものと、半地下式のものに分けられる。古墳時代の須恵器窯の大きさは全長10メートル前後、焼成部最大幅2メートル前後、床面より天井までの高さ1、5メートル前後あり、奈良・平安時代になるとこれより小さくなる。須恵器窯内部が階段状をなすものは、いずれも同時に瓦を焼いていた。また、須恵器窯は還元焼成で焼かれたといわれている。
最初は酸化焔で高温を作り出し、製品が焼き上がる頃を見計らい大量の薪を投入し酸素不足の状態になり鉄分が青灰色に発色するのである。
一方で大量の薪が使われることから灰が生まれ、その灰をかぶって自然釉の器が生まれた。この釉は燃料の薪が燃えてできた灰と土が溶け合ったものであるが、この釉薬を灰釉と呼ぶ。さらに意図的に灰釉をかけたものが生まれ、これを灰釉陶器と称した。
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