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武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(4)

2018年01月02日 | 斎藤徳三郎の生涯

徳三郎と岸田麗子との交遊(麗子像)

  斎藤徳三郎は岸田麗子さんの思い出を水戸の「週刊天恩400号」に執筆した。

◎斎藤徳三郎作「週刊てのおん」表紙絵


「東京から今日謹吾兄が麗子さんの訃報を天恩編集部に知らせてくれ、それから私も知らせを受けて言葉通り驚いた。

そして死んだとは思えない。いま思い出の一言を作文にしようとしても、麗子さんが死んだとは実感されない。

またいつでも「新しき村展」や「大調和展」の集まりで元気な姿と美しい声が聞かれると思えてならない。

麗子さんは恩師武者小路師を一番尊敬していた。尊敬し続けて、この世から去られた。新しき兄弟のひとりとして私は今再びこのことだけでも麗子さんの霊に頭が下がる。

 私が麗子さんを知ったのは、岸田劉生師が鵠沼にいられる時代からだ。

◎岸田劉生家族前岸田麗子


言葉をかける機になったのは、大調和展で私が劉生師の処へしげく通うようになってからだ。

 武者小路師につれられて劉生師の画室で麗子さんの絵を見て驚いたことがあった。

日本敗戦と、その後の苦しい世の中をよく生きぬいて、近頃益々絵を勉強され、個展や、その他を、何回もやって居られたことで、大変よいことだと嬉しく思っていた。


◎岸田麗子


 椿貞雄兄が小瀬の私の処へ来てくれ、麗子さんの色々なことを話され、又、中川一政師も話してくれた。

そのなかで、私の頭にのこっているのは、いつも皆さんが、麗子さんのことを愛していられ、心配していられ、そして元気に仕事をしてして行くことを、と思われていた事実は、誠に劉生師を通しての愛情だと思う。

 劉生師の画業の一切の特質は、麗子像によって代表されている。 愛とキビシサと、芸術とが、父と子と一体になって世に残されている事実を知れなければならない。


◎岸田劉生作「麗子像」


水戸で「あたらしき村展」を天恩画廊でひらいた時、大変に天恩同人の親切な心づかいを感謝して帰られたこともあった。

私は笑い話の中にフラフープのことを話したら、フラフープを送ってくれる約束もあったが、その後虎屋の御菓子を送って頂いた。そんなことも一つの思い出である。

 今年の一月再開大調和展の受付日に、いつものようにニコニコ笑いながら、お話しいたした、その時の気持ちが、いまもなお目に浮かび、9月に三越でやる「新しき村展」で、またお目にかかれるかも知れない。

ともあれ立秋の風吹いて、病葉一葉落ち、益々人生の無情を知るのみ。37、8、1」と追悼している。


 ◎斎藤徳三郎作「週刊てんおん」表紙絵



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