福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(7)

2018年01月06日 | 斎藤徳三郎の生涯

斎藤徳三郎と武者小路実篤

 昭和39年水戸の伊勢甚デパートで「斎藤徳三郎個人展」が開かれた。武者小路実篤(79歳)は推薦文で「斎藤君を知って40何年になる。この間いろいろな事があり、暫く何処にいるのか知らない時があったが、いつのまにか水戸の山奥に住を定めて農業をやりながら画を続けているのを知り、よかったと思った事がる」と書いている。「いろいろな事」とは何か興味が持たれる。

 その後武者小路実篤と斎藤徳三郎の二人展は水戸と大子町の大子第一高等学校で開かれ評判になった。

 


◎武者小路実篤書「茨城県県会議長斎藤沈水への為書」


◎斎藤徳三郎作「深海の天女」100号

大子町の篤志家斎藤枕水家には武者小路実篤の掛け軸・絵・斎藤徳三郎が東京より3人の美女のモデルを呼んで裸体を描いた100号の大作「深海の天女」が残っている。

また、椎名昭一家(徳三郎がよかっぺと命名・蕎麦茶店)には農天下大本也の大作が掲げられている。

 


武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(6)

2018年01月04日 | 斎藤徳三郎の生涯

斎藤徳三郎と椿貞雄

 昭和33年「斎藤徳三郎、棟方志功二人展」に寄せて国画会会員椿貞雄が寄稿している。

◎山形出身の椿貞雄作「柿之図」

◎椿貞雄作「童女像」

「斎藤が二十年振りにひょっこり現れた。茨城の奥で田畑を耕している。日本橋魚川岸生れの彼が、すっかり百姓親爺になったのには一寸驚いたが、彼にはそういう性格が前からあったので、新しき村の最初の会員で九州へ武者さんについていったのでもわかる。その頃から絵を書いていたわけだが、その後筆を捨てる事ができなかったのはよくわかるし嬉しいことだ。

 斎藤の処へ行って彼の百姓生活を見て又彼の人格的進歩に驚いている。

 こんど個展を開催すると云うその意気や甚だよろしい。彼の仕事は勿論今後にかかっている。個展は自己反省だ。これを出発点として大いに努力して貰いたい。斎藤独特の仕事が生まれるのを心から祈っているわけだ。」

 ◎斎藤徳三郎



武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(5)

2018年01月03日 | 斎藤徳三郎の生涯

斎藤徳三郎と棟方志功

 昭和33年(1958)には「斎藤徳三郎・棟方志功二人展」が水戸の天恩ビル画廊で開催された。



 この時斎藤徳三郎は油彩倭画7点・油彩17点・板画3点・回顧作品2点を出展した。棟方志功は倭絵9点、書3点・板画18点を展示した。




 

◎斎藤徳三郎作

 


この展覧会に棟方志功(61歳)は二人展に寄せて次の様な一文を寄稿した。

 斎藤徳三郎大仁と二人展覧会を祖想父武の地水戸市で開かれることは喜悦以上の有り難さ、かたじけなさを受与いたします。

 斎藤徳三郎大仁の貴命は実に扶桑大魂の命実を克く体し、その国祖の大妙に締結させるあり方こそこの国の画業とせるところ、私の画憑とおなじくするところであります。同じくする事ばかりでなく大仁に教示されるばかりであります。

 先醒畏情の斎藤徳三郎大仁とのこの展覧会には、わたくしも当地に行ける歓喜を隠す事できなく、満足以上であります。どのようにか皆々様の御恩義に寄る事が深尽と、お願いと喜びを重々にしてこの二人展覧会最初のお願いの記を書きました。 

 昭和32年12月15日     版画家 棟方志功


◎棟方志功版画昭和31年「花見の作」


また、恩師武者小路実篤(75歳)は「斎藤徳三郎・棟方志功展に寄せて」

「斎藤徳三郎個展に際して」と題して、次のような一文を寄せいる。 

 

斎藤徳三郎はよく僕を驚かす人間である。20何年水戸の、山奥、どんな処か知らないが、引き込んで百姓の仕事をしている。去年久ぶりに僕の家を訪ねてきた時、変な奴が来たと思っていた斎藤だった。今度また朝早くやってきて水戸で個展をやるという。水戸は彼には第二の故郷のようなものだから故郷で個展をやるわけだから20年前から親しくつきあっている僕には大いに祝いたいと思う。 斎藤の絵はどこまでも斎藤らしい我儘な画である。斎藤を知っている僕にはおもしろく思う。その線にも調子が出ているし、色彩感覚もあり、田舎に引き込んでよく書いたといいたいが、他の人はどう思うか知らない。今度の個展で斎藤のがむしゃらなところがなくならず、益々油に乗って仕事をすることを望んでいる。とにかく人を驚かす人間である。

 

 ◎武者小路実篤


武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(4)

2018年01月02日 | 斎藤徳三郎の生涯

徳三郎と岸田麗子との交遊(麗子像)

  斎藤徳三郎は岸田麗子さんの思い出を水戸の「週刊天恩400号」に執筆した。

◎斎藤徳三郎作「週刊てのおん」表紙絵


「東京から今日謹吾兄が麗子さんの訃報を天恩編集部に知らせてくれ、それから私も知らせを受けて言葉通り驚いた。

そして死んだとは思えない。いま思い出の一言を作文にしようとしても、麗子さんが死んだとは実感されない。

またいつでも「新しき村展」や「大調和展」の集まりで元気な姿と美しい声が聞かれると思えてならない。

麗子さんは恩師武者小路師を一番尊敬していた。尊敬し続けて、この世から去られた。新しき兄弟のひとりとして私は今再びこのことだけでも麗子さんの霊に頭が下がる。

 私が麗子さんを知ったのは、岸田劉生師が鵠沼にいられる時代からだ。

◎岸田劉生家族前岸田麗子


言葉をかける機になったのは、大調和展で私が劉生師の処へしげく通うようになってからだ。

 武者小路師につれられて劉生師の画室で麗子さんの絵を見て驚いたことがあった。

日本敗戦と、その後の苦しい世の中をよく生きぬいて、近頃益々絵を勉強され、個展や、その他を、何回もやって居られたことで、大変よいことだと嬉しく思っていた。


◎岸田麗子


 椿貞雄兄が小瀬の私の処へ来てくれ、麗子さんの色々なことを話され、又、中川一政師も話してくれた。

そのなかで、私の頭にのこっているのは、いつも皆さんが、麗子さんのことを愛していられ、心配していられ、そして元気に仕事をしてして行くことを、と思われていた事実は、誠に劉生師を通しての愛情だと思う。

 劉生師の画業の一切の特質は、麗子像によって代表されている。 愛とキビシサと、芸術とが、父と子と一体になって世に残されている事実を知れなければならない。


◎岸田劉生作「麗子像」


水戸で「あたらしき村展」を天恩画廊でひらいた時、大変に天恩同人の親切な心づかいを感謝して帰られたこともあった。

私は笑い話の中にフラフープのことを話したら、フラフープを送ってくれる約束もあったが、その後虎屋の御菓子を送って頂いた。そんなことも一つの思い出である。

 今年の一月再開大調和展の受付日に、いつものようにニコニコ笑いながら、お話しいたした、その時の気持ちが、いまもなお目に浮かび、9月に三越でやる「新しき村展」で、またお目にかかれるかも知れない。

ともあれ立秋の風吹いて、病葉一葉落ち、益々人生の無情を知るのみ。37、8、1」と追悼している。


 ◎斎藤徳三郎作「週刊てんおん」表紙絵


武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(3)

2018年01月01日 | 斎藤徳三郎の生涯

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

平成30年1月元旦

松宮 輝明

 





岸田劉生と徳三郎 


岸田劉生とは武者小路実篤を通して知り合いになった。徳三郎は大正13年に岸田劉生が結成した「春陽会」第1回展に出展した。 春陽会同人には小杉放菴・中川一政・木村壮八・万鉄五郎・梅原龍三郎等がいた。この年、岸田劉生は30歳・梅原龍三郎32歳・中川一政28歳、徳三郎21歳であった。


◎斎藤つく三郎の日本画「山水」


◎岸田劉生


◎前列左より声楽家柳兼子、武者小路徳子、

後列左より3人目武者小路実篤、柳宗悦、滋賀直哉(我孫子の武者小路実篤の別荘にて)

 

 武者小路実篤は大調和会展を設立した。設立の理由は春陽会を3回展で退会した岸田龍生のために作られた展覧会であると言われている。その第一回展が昭和2年、上野の日本美術協会で開催された。劉生は関東大震災後東京駒沢村を離れ京都より藤沢鵠沼に移り住んだ。龍生は日本画を試み「舞妓里代の像」など意欲作を出展した。武者小路は徳三郎を大調和会展の事務局主任に任じた。徳三郎の彼女(最初の妻)は白樺派同人の河野通勢の弟子であった。


◎河野通勢の自画像


彼女は実家が関西の御殿医をつとめた名家の娘であった。河野通勢は「箱入り娘同様に扱っていた。徳三郎に誘惑するなよ。」と釘をさしていた。この恋愛で河野通勢は実家と二人の間に入り苦しい味をなめたと言われている。白樺派の仲間たちは「御曹司とお姫様のしたことだ」と言って容認した。徳三郎の妻も作品を大調和会に出展した。 大調和会展は龍生の死を契機に2年で閉鎖された。再興大調和会展は昭和37年、武者小路を中心に白樺派画家・河野通勢の息子河野通明等が計って再興した。徳三郎は再興大調和展に出展してベテランの片鱗を見せた。

 大正14年梅原龍三郎が春陽展を退会し国画創作協会に迎えられ徳三郎も国画会に移った。そこで春陽会の盟友棟方志功と再開した。 棟方は「大和し美し」を出展し日本民芸館に買えあげられる。柳宗悦・河井寛次郎、浜田庄司の知遇を受けた。


◎左から陶芸家浜田庄司、民芸運動の柳宗悦、陶芸家河井寛次郎


 梅原龍三郎は国画会を退会し徳三郎も出展をやめた。棟方とは日本板画院を結成し棟方が名誉会員・徳三郎が参与になった。そして松方三郎を会長に迎えた。

 徳三郎は春陽会で慶応大学医学部卒業の医師で梅原竜三郎に師事した富田重雄(明治33年生まれ)と交遊し国画会でも行動を共にした。富田は美人画を得意とし吉川英治の「宮本武蔵」の挿絵も描いた。後に文展審査員になる。

◎武者小路実篤と滋賀直哉