社会の歯車として日々、暮らしている。
僕はずっと疑問に思っていた。
人間とは何なのか。
なぜこんなにも苦しい社会なのか。
なぜ人間は差別や貧困を生み出すのか。
サピエンス全史という本を読んでいる。
雑に言えば人間という生き物の歴史が書いてある本だ。
人間は、サピエンスという動物である。
このサピエンスが生態系の王者になったのかと言えば、目に見えないものを皆が信じることのできる能力に由来する。
普通、動物は150を超える個体の集団は維持できない。必ず分裂するようになっている。
動物としての人間(以下、サピエンス)の脳の構造上、それは他の動物と変わりはない。
だが、サピエンスはファンタジーを信じることができ、皆がそれを共有することで、生物学上の限界を超えた集団を形成できた。
これは現代社会でも同じである。
人は皆、生まれながらに平等な権利を有するというが、それはフィクションである。
そんなものはない。ただサピエンスという動物がいるだけである。
人は皆、法律を信じているが、それはフィクションである。
そんなものはない。ただサピエンスという動物がいるだけである。
逆に、人は差別するがこれもフィクションである。
そんなものはない。ただサピエンスという動物がいるだけである。
資本主義も、社会主義も、王も奴隷も貴族も平民も、法治国家さえもフィクションである。
もっといえば、会社、学校、病院、結婚、家族さえもフィクションなのである。
みんなが信じているから成り立っているだけに過ぎない。
だが、このシンプルだが強力な事実を数名が叫んだところでこの夢は醒めない。
だからなに?の世界である。
多くの人は政治家にも、革命者にもなる意志は持たないだろう。金持ちになる欲望は抱いても。
だが、現代日本に生きる僕らサピエンスは、この劇の演者なのだ。
演者といえば怒ったり、不快に思う人もいると思うが、やはりこの集団が持っている幻想の中に生きる演者だ。自覚してもしなくても。
かつて、昭和の時代は、一億総中流と言われるように、同調圧力が強く、その幻想の中で人々は演じてきた。社会の常識から外れれば、ほとんど迫害や差別を受けた。
令和の今は、どうだろう。
同調圧力から、個人の価値を重視する幻想を持つ人が増えてきた。
少しずつ、常識が変わりつつある。
これは個人の価値観こそが最重要であるとする幻想をもつサピエンスが増えたからだろう。
個人の価値観の差別は無くなりつつある。
これはいいことだ。
だが、依然として、経済的格差は解消していない。
能力至上主義の世の中だ。
だが、これに異を唱えるものは、まだ少ない。
これからこの社会がどのようなファンタジーを共有していくのか、それは分からない。
だけども、不当な立場にあなたがいるのなら、このフィクションをという台本を逆手に取って、自分に有利になるように物語を書き換えることができる。
法や権利はファンタジーだが、それを信じる者にとっては、現実だ。コンプライアンスが進む現代にとってこのファンタジーで身を守ることができる。
ファンタジーの悪役を押し付けられているなら、もっと多様なファンタジーを信じる集団に移ればいい。
資本主義から離れた生活をしたっていい。
この時代のファンタジーを読み取って、上手に世渡りしていこう。