旅をする木

焚火好き、毎日炎を眺めていたい。それが叶わぬのなら、せめて月に一度だけでも・・・焚火(最近はポタリングばかりですけど)

浮羽 14・12・7

2014-12-07 22:55:35 | ポタリング

ブログの題名 『旅をする木』 の由来  

 

杷木のマルキョウに車を停め。

土地勘の無い私たちは

まずは 『道の駅原鶴』 まで行ってこの辺りの情報を収集します。

 

原鶴温泉の昭和レトロな飲み屋街

スナック 『ジュリー』です。   

 

正平塔  

田園の中に、ぽつんと立つ 南北朝時代の塔。  

1359年(正平一四年)この付近であった日本三大合戦の一つとされる 「大保原合戦」(おおぼば

る)又は筑後川の戦いとも呼ばれる、南朝方と幕府側(北朝)による大規模な戦いの死者を弔うため

に、正平一八年に建立された塔(約650年前)

正平一八年という年号の『正平』は南朝方の年号です。北朝方では貞治二年になります。

この時代、九州では後醍醐天皇の皇子、征西将軍懐良親王(かねながしんのう)を奉じる南朝方が

優勢で合戦に勝った後、懐良親王は大宰府を制圧して九州での勢力の最盛期となる。

 こうして筑前一帯の武家方はなりをひそめた ので、征西将軍宮は御在所を太宰府

に進めるこ とができ、その後しばらくは九州の経営がここ で行われることになったの

である。

太宰府は、その昔朝廷の遠の朝廷(みかど) として建てられた役所であったが、武家

の世と なって太宰少弐であった少弐氏が治所として長 くとどまっていたのである。今

や征西将軍宮の 御在所として平安の昔にかえった観がある。

これより先、九州探題として下ってきた斯波 氏経も、この形勢を見てどうにもならない

と 思ったのか、正平十八年(一三六三)には九州 を捨てて引き上げてしまった。また

斯波氏のあ とを受けて九州探題になった渋川義行も、備後 (岡山)まで来たが、宮方

勢にさえぎられて数 年後備後から引きかえし、ついに九州には入れ なかった。

 

対外的には、明朝から冊封を受け、『日本国王』 を称した。

これは、倭寇の跳梁跋扈に手を焼いた明が、九州を制圧している懐良親王に倭寇討伐、平たく言え

ば、お前んとこの悪党どもをなんとかしてくれぇっと、取締りを要請して、それと引換えに日本国王の

称号がわたされたんだと。

 つわものどもの夢のあと  

今は、のどかな田園風景。  

 

 

 

 浮羽の地名の由来地  

 なぜか、不慣れな、この地を車や自転車で走り、道に迷うとここに出ます!

この場所で、2回はUターンしました。(笑

 


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