杷木のマルキョウに車を停め。
土地勘の無い私たちは
まずは 『道の駅原鶴』 まで行ってこの辺りの情報を収集します。
原鶴温泉の昭和レトロな飲み屋街
スナック 『ジュリー』です。
正平塔
田園の中に、ぽつんと立つ 南北朝時代の塔。
1359年(正平一四年)この付近であった日本三大合戦の一つとされる 「大保原合戦」(おおぼば
る)又は筑後川の戦いとも呼ばれる、南朝方と幕府側(北朝)による大規模な戦いの死者を弔うため
に、正平一八年に建立された塔(約650年前)
正平一八年という年号の『正平』は南朝方の年号です。北朝方では貞治二年になります。
この時代、九州では後醍醐天皇の皇子、征西将軍懐良親王(かねながしんのう)を奉じる南朝方が
優勢で合戦に勝った後、懐良親王は大宰府を制圧して九州での勢力の最盛期となる。
こうして筑前一帯の武家方はなりをひそめた ので、征西将軍宮は御在所を太宰府
に進めるこ とができ、その後しばらくは九州の経営がここ で行われることになったの
太宰府は、その昔朝廷の遠の朝廷(みかど) として建てられた役所であったが、武家
の世と なって太宰少弐であった少弐氏が治所として長 くとどまっていたのである。今
これより先、九州探題として下ってきた斯波 氏経も、この形勢を見てどうにもならない
と 思ったのか、正平十八年(一三六三)には九州 を捨てて引き上げてしまった。また
斯波氏のあ とを受けて九州探題になった渋川義行も、備後 (岡山)まで来たが、宮方
勢にさえぎられて数 年後備後から引きかえし、ついに九州には入れ なかった。
対外的には、明朝から冊封を受け、『日本国王』 を称した。
これは、倭寇の跳梁跋扈に手を焼いた明が、九州を制圧している懐良親王に倭寇討伐、平たく言え
ば、お前んとこの悪党どもをなんとかしてくれぇっと、取締りを要請して、それと引換えに日本国王の
称号がわたされたんだと。
つわものどもの夢のあと
今は、のどかな田園風景。
浮羽の地名の由来地
なぜか、不慣れな、この地を車や自転車で走り、道に迷うとここに出ます!
この場所で、2回はUターンしました。(笑
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