今日は涼しく、過ごしやすい日でした。
散歩にでも出かけようかと思いましたが、散歩の友である同居人が留守で、なんとなく、ごろごろして過ごしてしまいました。
土曜日は必ず、義母を整形外科に連れていき、歩行訓練のリハビリを見守り、遅い昼食を取ってから帰宅します。
帰宅したら義母の汚れ物、一週間分の洗濯。
歩いている暇などありはしません。
こんな生活が始まって、もう半年になろうとしています。
正直、義母が施設を卒業して自宅で独り暮らしが出来るまでに回復するとは思えません。
衰え行くばかり。
その姿は、将来の私たちを暗示しているようで、怖ろしくすらあります。
義母は幼い頃東京大空襲で母親を失い、可哀そうな子だと、父、祖父母になめられるように可愛がられて育ちました。
商業高校を出て国策銀行に就職。
義母は高卒ですから兵隊要員ですが、短大を出たお嬢様がたくさんいて、2年ほどでエリート銀行員と結婚して退職していったそうです。
義母は東大卒のエリート銀行員から求婚されたこともあったそうですが、つりあいが取れないと断り、純朴な田舎の青年が良い、と言って、福島で生まれ育った義父とお見合い結婚。
空襲で丸焼けになった東京の下町に住むのは嫌だと、結婚を機に千葉に都落ちしてしまいました。
二人の娘に恵まれますが、下の子は難病により、わずか18歳で儚くなってしまいました。
このことは義父母にも、同居人にも忘れられない不幸な出来事として、家族の歴史に昏い影を落としたことは容易に想像がつきます。
長女である同居人はすくすくと育ち、大学を出て公務員になり、私と出会い、職場結婚しました。
義父はすでになく、義父の存命中は悪口ばかり言っていた義母ですが、亡くなってみると義父に頼り切った生活をしていたことに気づき、しかし後悔先に立たずというわけで、今は同居人に頼り切った生活をしています。
義母は家族に恵まれなかった人でした。
幼い頃に母親を亡くし、父親も高校生の頃他界。
両親がいないと就職でも結婚でも差別される時代でしたから、苦労したようです。
二女も高校生で亡くなってしまいました。
しかし経済的に困ることはなく、楽しく過ごした時期もあったようです。
でも今は、自分の生涯は辛く、つまらないものだったと、嘆いてばかりいます。
かかりつけの内科医は老人性のうつを疑っていますが、義母は頑として認めません。
それを認めたら、一層、自分の生涯がみじめなものだったということになると思っているようです。
私は義理の息子であって、しょせんは他人。
心を許すことはありません。
義父は男の子が出来なかったせいか、婿である私を良くしてくれ、何かと相談を持ち掛けたりしてきました。
父親と母親の違いなんでしょうか。
好きだったお絵描きや美術鑑賞、クロスワードパズルなどにも興味を示さなくなり、ただぼんやりとテレビを観て過ごしているようです。
齢80を超えてこれといった楽しみもなく、まるで死を待つ人であるかのようになってしまいました。
残り少ないであろう老後を、もっと楽しんでほしいのですが、こればっかりは本人の気持ちしだい。
私たち夫婦に出来ることは何もありません。
せめて義母の老後が、心安らかであらんことを。