真実の扉

「何もしないことをする時」「何も考えないことをする時」・・本当の自分の扉が開く

規律と自由意志

2005年07月13日 22時00分30秒 | 新しい秩序へ

 自由と規律との調和のキーワードは霊的自立です。つまり自己確立です。
 世間一般で言う規律とは自分の外にあって、本来の規律とは自分の中にあります。
 自分の中の規律が全体の意思と合一していれば、外の規律は必要としません
 その場合、個と全体は調和しますので規制が必要ないのです。
 自分の中の規律が全体の意思と合一していれば、憲法も法律も必要ありません。

 
もちろん警察も自衛隊も存在しません。
 そこに存在するのはただひとつ、宇宙の法則、愛と調和の体現です。

 肉の世界、即ち本能と欲に翻弄されているうちは、個々の意思はバラバラであり、全体の、すなわち唯一の(神の)意思とは合一しません。
 人類は今、ちょうど「自由意思と規律」の狭間で葛藤する学びの時にいて、学校でもどこでもかえっていろいろな問題がでているとも言えるのです。

 最終的には共同創造がより高度なレベルで働く秩序体系―自由と自由がぶつからない社会へと地球は向かうでしょう。静寂な心で自分の中の全体にあまねくつながる神とつながり、それぞれの自由意思が統一された共同創造の中で神の秩序は保たれるのです。

 人間の身体に譬えれば、私たちの頭が大元の神で、手足やその指が私たちです。
 と言うと、このように考える方がいるかも知れません。
  「しかし人の手足もその指も、自由意思をもたないではないか、人が手足や指だとすると人は頭の奴隷ではないか」と。
 確かに動物の生態はこれに近いものです。特に「真実の扉」第5章(いまさら何をと言う感じですが、ブログとHPと私の本のタイトルが同じタイトルというのもややこしい)で紹介した蜂や蟻の一匹一匹は人間の髪の毛一本一本のようなものです。

 しかし、人間はそうではないのです。私たちの肉体の手足や指は確かに自由意思をもちませんが、実際の人間はそれぞれが思考する分化された自由意思をもっているのです。その私たちが神とつながり、神の意思と元々神から別れている個々の自由意思が互いに合意して、全体は調和の行動を取るのです

 自由意思のある人間にとって一番重要なことは、それを自分で感じて自分で行動することです。既に一体である私たちが唯々、自分を(神を)感じて神の意思を自分の意思として演じればいいのです。

 実は、今を生きるということも、あるがままの自分を生きるということも、好きなことをして生きるということも、神とつながって生きるということも、みんな同じことなのです。

 正しき共同創造(霊的自立による霊的創造)こそが真の民主主義であり、神の国の秩序です。心を洗うことによって神の想いは体現できるのです。

 次回は、人間の自由意思と神の意思との関係をジグゾーパズルに譬えてみます・・・

↓思うところがあったら Clicしてね。。。
「人気ブログランキング」に参加しています。上位に入ることで多くの人にこのブログの存在に気づいてもらい、世の中の真実、自分の真実についても気づいてもらい、一人ひとりが本当の自分を取り戻し、地球が愛と調和の地軸を取り戻すことを願っています。
 ありがとうございました。

今日の写真は
〝時さん〟の「夜明けの朝」

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 意識の進化論up | トップ | 意思をもったジグゾーパズル »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ロンドン同時多発テロに思う (ふるさん)
2005-07-15 13:06:20
霊的自立に目覚めることは、ほんとうの愛について理解し、自覚することが必要と考えます。

すこし観点がずれるかも知れませんが、私のブログに今回のロンドン同時多発テロについて書いたことを転載します。





このような多数の犠牲者が出るテロ事件と称される事件が発生するたび思うのであるが、事件の真犯人は誰であれ、こういう事件が発生するたびに時の行政府の管理体制がよりいっそう厳しくなり、警備の重要性が強調され、警察、自衛を含めた軍隊の必要性が叫ばれることに時代の逆行性を感じるのは私だけであろうか?



何か事件が起こるたびに、警備を厳しくすること、人をどんどん猜疑心に追い込むことは、宇宙の真理から遠ざけてしまうことであり、新しい時代の方向性に逆行することである。

進化した星の愛と調和のある社会では、人を傷つけたり、人を騙したりすることはありえないので、警察も軍隊も存在しない。



人を信用できない社会だから仕方がないと言ってしまえばお終いだが、ロンドンで起こったからと言って慌てて日本の地下鉄でゴミ箱が全て撤去されたり、やたらと街角に立つ警察官が増えたりするのは、何かしら滑稽でさえある。



恐怖や暴力に対して力で対抗すること自体が真理から遠ざけることだからである。

テロを日本語であえて直訳すれば「恐怖」である。



恐怖の反対語は愛である。



テロに屈しないこととは、愛に生きることであり、その愛に生きることを進めることだと思う。



例えば今回のテロ事件の真犯人がイスラム過激派の仕業だとして、彼らをここまで追い込ませたのは何であろうか、憎しみを募らせる原因は何であるのか、憎しみを募らせる原因を無くす社会の構築に我々は努力したであろうか?

今までどれだけアラブの人たちの命を奪い、尊厳を踏みにじってきたのだろうか?

宗教的対立では無い。 文明の対立でも無い。 人を人として認め、人として生きることを保障してきたであろうか?



例えば今回のテロ事件の真犯人が俗にいう権力者の陰謀だとして、人々の恐怖心を煽ることが目的であり、執行者の管理体制をより強固にし、自分達の安全の為なら他国を専制攻撃して、罪の無い人が少々犠牲になっても構わない。 その方が軍事産業も栄えるし、石油などのエネルギー源の確保に繋がり、自分達の覇権を磐石なものと出きるという考えで実行されてるとしたら、その陰謀に乗っかり、日々地下鉄や交通機関に乗るのにビクビクし、「やっぱり軍隊がいて守ってくれないと」いう人が増えることが懸命なことであろうか?



今回のロンドンの事件でのイギリスの対応は、アメリカで起こったような専制攻撃路線ではなく、むしろ国際協調路線であり、世界が結束してテロ対策にあたるよう呼びかける路線のようだ。

しかしながらこのテロ対策が、力による力の封じ込めを意味するなら本当のテロ対策になり得ない。



愛を基本としたシステムに転換することが、顔の見えないテロを無くす一番の近道であり、それが唯一の方法であることを叫びたい。
返信する
ふるさんへ (とびら)
2005-07-17 08:39:12
バタバタしていまして、自分のブログも見ていませんでした。

コメント遅くなりまして申し訳ありませんでした。



ユートピア社会とは憎しみ、恨みのない社会で、それはカルマのない社会を意味します(機会があれば書きますが、カルマの多くは憎しみ恨みを利用して作動されるように仕組まれている)。



 考えれば考えるほどに、愛の実現される社会には問題が山積みですね。

 もうここまで来ると、社会を変えることではなくて、自分を変えることで自分の周りが変わることが最優先と感じています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

新しい秩序へ」カテゴリの最新記事