山奥の脊振神社に行った。
本殿は佐賀の乱で焼失し、現在のは、おそらく明治のものだろう。
参拝者もほぼなく、家族連れのミニバンが1台出て行っただけ、三連休の間の土曜日。
しかし、水はきれいで、心が洗われるよう。
社殿への階段を登り、参拝。
しかし、疲れから、手摺にすがって登ってしまった。
南関の生目神社のように、急で狹く長い石段でもないのに。
なんか元気がない。
しかし、山道、オートバイは気持ち良さそうだ。
こっちも貯金擦り減らしたシビックだぞ。
鳥の糞載っけているが。
まあ、お互い女載っけていないのは、同じだが。
しかし、国産はいい。
故障しないし、カッコよくて外車より安い。
普段は原付きです。
人がいない社殿でしたが、巫女さんが、お守りと一緒におられて、参拝後、お守りとおみくじ頂いて帰りました。
梅のお茶も頂きました。
大変きれいな巫女さんでした。
この世のものではないように美しかった。
岩清水が此の世のものではないようにおいしかったです。
以下、蛇足の世俗編
山奥を去ると、やがて、農村の光景。
しかし、そこから国道に出ると、世俗だなあと感じました。
今回は、スマホ忘れたのて、
次回、画像付きでアップしようと思います。
以下、思うこと
今まで、行ったなかでは、聖なる感じが一番する神社。
人が見失っているものがある。
山そのものが結界で、世俗ではない。
山里からさらに山里をへて、二重に浄化されたところにある。
濁流編
世俗がどうあろうと、山の木々はかわらない。
大切なのは、世俗で生きる心を捨てることだ。
人生で選択をすると必ず裏目にでる。
なるようにしかならない。
慣性系
山奥の神社と巫女が、この世界から逸脱した世界としても、その世界に住むことはできない。
一つの異界なのかもしれない。
われわれは、あるひとつの慣性系のなかにいる。
私は、孤独な独身だが、ふとしたことで、幸せを見ることがあった。
古いアパート、その中で、母子の姿。
父は、仕事で時々帰る。
決して経済的に豊かではないが、幸福というものがある。
経済的エリートが極楽に行くわけではない。
異界
川端康成は、異界に囚われた人だったように思う。
人はなにかに囚われている。
異界を支配と金銭で取り除こうとしても、
それはどこかにある。
というか、
心の異界を放出するところを同時に潰していっている。
それは、魔というものであるか。
ソクラテスもイエスもそのことを知っていた。