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時の関守

心のなかに神を住まわせるということ (5)

心のなかに神を住まわせるということ。

なんだか、かなり高尚(こうしょう)そうなことですね。
でも、だいじょうぶです。
そのことが、かなり難しいことであること。なによりも、自分の心が、そんな窮屈(きゅうくつ)なことはいやだといっているのが、わかっているのだから。

いやのものはいやでよい。
自分の心(たましい)に正直に生きればいい。
たとえば、世間の常識、人間が頭で考えたルールが、必ずしもほんとうの常識ではない(と思います)。
社会には、最低限のルールというものがありますが、だからといって、必ずしもそれに縛られる必要もない。

なぜなら、それは人間の頭で考えていること。
人間の頭で考えることは、どこかで自分の都合のいいように、自分の得となるような判断をしている。
でも、たましいが判断することは、それとちょっと違う

頭で考えることは、たとえば、家でいうと。
家のなかに、子供たちだけがいるようなもの。
子供だけだと、そこに争いが起きたとき、力の強いものが勝つ。だから、そこにルールが必要となって、完全でなくても、暫定的(ざんていてき)なルール、常識というものがうまれます。

では、たましいが判断するとき、どうなるのでしょうか?
(そこにまだ、親はいないのですが、)必ず親が帰ってくることがわかっているので、親が帰ってくることが前提となって判断することができます。
子供たちだけでは、力があったり、頭がいいものが得をしますが。
でも、親が帰ってきたとき、それがちゃんと是正(ぜせい)されることを知っているのですね。

人間には、我というものがあって、「だまされてはいけない。お人好しでは、馬鹿を見るのはおまえだぞ。最低でも、自分の取り分は確保するのが、常識というものだぞ。」そう、ささやいています。
でも、親が必ず、帰ってくるという前提があると、違ってくるはずです。

ほんとうに賢い兄(姉)は、泣いている弟や妹に自分の分のおやつを分け与えても、親が必ずその分の補償をしてくれること、そして、ありがとうねと、ねぎらいの言葉をかけてくれることを(疑うことなく)知っています。

また、常識とは、人間の知恵がつまったものですが、その常識というものが(世間では)必ずしもまもられるとは限りません。
例えば、宗教という常識が、必ずしも機能していないことが言われて久しいのは、知っています。
人々の争いを止めるどころか、争いに加担したり、それどころか争いのもとになってさえいます。
宗教といえど、それが人間の営(いとな)みである以上、人間の我が混入している証拠ですね。
本人が正しいと思ってやることでも、逆にそれだからこそ、危険は隣り合わせにあります。

どんなに澄んだ水であっても、そこに汚れが入ってしまうのは、しかたのないことでしょう。
大事なのは、その汚れを絶えず浄化していくこと。
ただし、私はこれだけ修行した。
人にいえないほど修行しました、勉強しました。
これほど危険なことはないかもしれません。

なぜなら、これだけ修行しましたと、人に言わなければならないほど、神から心が離れているということ。
その証拠だからです。
神があなたの心のなかにいるのなら、人に承認してもらう必要などないのですから…

もし、私にはそんな(神から心を離さないというような)強い意志を持てない、そんなこと無理だというなら…
それなら、むしろ、(神さま)に住んでもらえばいい。
それだったら、できるかもしれない。
だめだめな自分であっても、そこに見守っていてくれる存在がある。
だめな自分も自分。
開き直って、さらけだせばいい。
それが自分以外の何者でもなければ、隠す必要もない。

神は私とともに、私のなかに住んでいるのだから…
神はすべてを知って、見守っているのだから…

「心のなかに神を住まわせるということ1~5」をこれで終えさせていただきます。お付き合いいただきありがとうございました。
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