徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純~手術④~

2020-01-27 05:00:00 | 日記
一度目の手術。
手術着に着替えていた私は、看護師さんの言われるまま自力で手術台に横になった。
天井を見ると以前の手術の跡か、血の跡らしきものが一つ目に入った。
恐らく以前の患者さんのものと思われ、体が固くなった。
周りでは助手の人や看護師さんたちがテキパキと動いていた。
そのうち私の頭の上にアーチ状のステンレスの枠がかけられ、その上からブルーシートをかけられた。
視界は目の前のブルーシートで完全に塞がれた。
看護師さんから名前と生年月日を聞かれ、答えると担当の先生から”井手さんこれから(専門用語)の手術に入ります。”
と言われ、手術が始まった。
まず足のつけ根に局部麻酔を打たれた。
とにかく、何も見えない状況で麻酔を打つ時の痛みと、麻酔が効き始めてからの先生の動きを想像するしか無かった。
付け根部分からつま先への動脈に管らしきものがグイグイと差し込まれて行く鈍痛感覚があり、その管をまるで水道管の詰まったカルキ抜きをしている感じで
ガリガリと動かされた。
痛みはそれ程ないものの、思わず腰に力が入った。

私・井手純~手術③~

2020-01-24 05:00:00 | 日記
7月22日に入院し手術は25日であった。
とにかく私としては、手術台に上がることは、生まれてこのかた初めての事なので不安と期待でいっぱいだった。
しかし足が痛くて20~30メートル休み休みでないと歩けなかったのが、治るという嬉しさの方が大きかった。

手術日は決まっていたが、入院日は混んでいたので4日前であった。
その間毎日検査ばかりで、尚且つ点滴のくだをつけられトイレに行くのも面倒だった。
友人の見舞いに行ったときにその様な姿を見ていたことはあっても、いざ自分がそうなってしまうと情けなかった。
いよいよ車椅子に乗り、手術室に着き、手術台に上がると緊張して動機が高まった。
担当の先生は淡々とした口調でこれから行う手術の説明をしてくれた。
ここまで来たら昔の人が言っていた”嫁にいった晩で相手の言い成り”の心境であった。

私・井手純~手術②~

2020-01-22 05:00:00 | 日記
市川にある循環器専門の病院に紹介状を書いてもらい、行くことになった。
私の父は開業医だったので、子供の頃より他の病院に行くことがなかった。
紹介を受けた病院は、家から20キロほど離れた最新の機器を揃えた病院とのことだった。
車の運転には支障が無かったので1人で行った。
手続きをして約2時間待ってやっと順番がきた。(勿論、予約を入れておいたのだが)
周りを見ると、自分が若く感じるほど高齢者が多かった。
先生に問診を受けて、その後4時間後にCTを撮って貰い、また2時間待ち、再度先生に話を聞くことが出来た。
結局約8時間病院にいた。
翌日、自分の足のレントゲン撮影を見ながら先生の説明を聞いた。
結論は”足梗塞”という事で、すぐに手術が必要との事だった。
原因は動脈硬化で、若い頃からの不摂生であった。
すぐに入院という訳には行かず、2週間後でないと混んでいて入れないとの事。
また、すぐに手術は出来ず入院から4日後に手術という事になった。
突然のことに只々驚嘆するのみであった。

私・井手純~手術①~

2020-01-20 05:00:00 | 日記
心筋梗塞・脳梗塞にならぶ足梗塞の怖さ。
68歳にして人生初の入院と手術体験。
日本で最近とくに注目されているのが足梗塞。
原因として基本的には動脈硬化。
動脈に血栓が詰まり血液が流れにくくなり、ひどくなるとかなりの痛みを伴いまったく歩けなくなる。
上半身(心臓、脳)に血栓が飛べば、麻痺やひどいときは死に至る。
下半身に血栓が詰まるとひどければ壊死を起こし切断に至ることもあると言う。
私は68歳なかばにしてその足梗塞を体験をした。
その時の実体験を書き残しておこうと思う。
私は2019年6月ごろから足が痛くなり、最初は右足。
買い物に出て20歩ほど歩くと脹脛が異様に痛くなり、休まないと進めなくなった。
息切れもひどくなり休み休み歩いていた。
今までに無かった状況に焦っていた。
行きつけのクリニックで診てもらうと薬を出してくれた。
すると幾らか楽になったが、暫くすると今度は左足が同じ様になり、とにかく20歩も歩けなくなり激痛が走りだした。
また同じクリニックに行くと、医師に、ここでは手に負えないと言われ、循環器の病院を紹介してもらった。
その頃は、杖を使わないと歩けなかった。

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会⑤~

2020-01-09 05:00:00 | 日記
姪の美喜からは晩年の慶朝のことを色々聞いた。
慶朝の住んでいたひたちなか市の自宅にも案内された。
慶朝が晩年お世話になったサザコーヒーの鈴木会長にもお会いし、そこでも色々な逸話を聞くことが出来た。

”徳川慶朝”という重い名前を背負い現代の世界で生きてきた彼の苦悩は大変なものであったと思い知った。
他にもたくさん徳川を名乗る方々はおられるが、それぞれにその名前の重さを痛感しているのだと感じている。

私などは”井手”を名乗り(勿論、井手家も由緒ある家ではあるが、さすがに徳川家とはその重さは比較にならないもので)やりたい事をやりこちらから言わない限りは誰も気が付かないのであった。

姪の美喜はまさに男勝りというか、とにかく行動力のある人で趣味も多彩で、料理、ゴルフ(シングルハンディ)、クラッシック音楽のプロデュース、また自分で幾つかの楽器を演奏するといったなかなかのもので感心した。
今回の慶喜家を閉じる重責も本人は苦しみながらもとにかく何事も前向きで頑張ってくれている。
同じルーツを持つ私としては頭の下がる思いである。

徳川おてんば姫(東京キララ社)