私の母は大正11年9月22日に15代将軍徳川慶喜家最後の孫娘として文京区小石川第六天町で生まれる。
22日と言う日は慶喜家にとってとても良くない日であった。
と言うのも慶喜公の命日が11月22日、そして父親慶久の命日もこれまた22日であった為に母親がそれを大変に気にして翌日の23日に出生届を役所に出した。
第六天の屋敷は敷地面積3400坪、建坪1300坪あった。
どれだけの広さだったかは何度も母から聞かされても想像出来なかった。
母は一男四女、5人兄弟の末娘であった。
長女は産まれて2日で早世。
次女喜久子とは11歳離れていた。
兄慶光とも9歳年の差があった。
三女喜佐子とは年子でまるで双子のようにお互い嫁ぐまで朝から晩まで一緒に暮らしていた。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
22日と言う日は慶喜家にとってとても良くない日であった。
と言うのも慶喜公の命日が11月22日、そして父親慶久の命日もこれまた22日であった為に母親がそれを大変に気にして翌日の23日に出生届を役所に出した。
第六天の屋敷は敷地面積3400坪、建坪1300坪あった。
どれだけの広さだったかは何度も母から聞かされても想像出来なかった。
母は一男四女、5人兄弟の末娘であった。
長女は産まれて2日で早世。
次女喜久子とは11歳離れていた。
兄慶光とも9歳年の差があった。
三女喜佐子とは年子でまるで双子のようにお互い嫁ぐまで朝から晩まで一緒に暮らしていた。
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