屋敷には常時50人程、人が住んで居た。
慶喜家に生まれ、幼少期より自宅の庭にさえ一人で出ることは出来なかった。
「世が世ならお姫様」としておしとやかな生活をしなければならなかったのでしょうが、かなりのおてんばだったようであった。
勿論慶喜家としての厳しい教育と躾はとことん教えこまれていた。
母はとにかく外での活動が好きで暇さえあれば、庭にでて木登り、凧揚げ、自転車、を常にしていた。
学生時代は乗馬、テニス、そして水泳が特に好きであった。
自宅の庭にテニスコートを作って貰った。(凄いことだ)
晩年は85歳までテニスと車の運転をしていた。
平成最後の年に突然紙幣の変更が発表され、一万円札に渋澤栄一氏が決まった事を知り驚いたと共にとても嬉しく思った。
と言うのも渋澤栄一氏のお孫さんと母は女子学習院にて同級生であった。
現在は鮫島純子さんであるが、数年前に小石川のもとの自宅の所に平成になってから国際仏教学大学が出来ており、母も鮫島さんも慶喜公の事について講演をしたことがあった。
また母とすぐ上の姉喜佐子は子供の頃渋澤邸に招かれた事もあった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
慶喜家に生まれ、幼少期より自宅の庭にさえ一人で出ることは出来なかった。
「世が世ならお姫様」としておしとやかな生活をしなければならなかったのでしょうが、かなりのおてんばだったようであった。
勿論慶喜家としての厳しい教育と躾はとことん教えこまれていた。
母はとにかく外での活動が好きで暇さえあれば、庭にでて木登り、凧揚げ、自転車、を常にしていた。
学生時代は乗馬、テニス、そして水泳が特に好きであった。
自宅の庭にテニスコートを作って貰った。(凄いことだ)
晩年は85歳までテニスと車の運転をしていた。
平成最後の年に突然紙幣の変更が発表され、一万円札に渋澤栄一氏が決まった事を知り驚いたと共にとても嬉しく思った。
と言うのも渋澤栄一氏のお孫さんと母は女子学習院にて同級生であった。
現在は鮫島純子さんであるが、数年前に小石川のもとの自宅の所に平成になってから国際仏教学大学が出来ており、母も鮫島さんも慶喜公の事について講演をしたことがあった。
また母とすぐ上の姉喜佐子は子供の頃渋澤邸に招かれた事もあった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
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