2021年4月21日の参議院本会議で改正プロバイダ責任制限法が可決成立しました。
この改正法は、これまでSNSの発信者情報の開示を得るために2回の裁判が必要だったのを1回の裁判で済ませるための簡略化した裁判手続などを定めたものです。
ネットによる中傷を受けた被害者が、投稿の削除請求や発信者情報開示請求をするためには、プロバイダ責任制限法の定める手続にしたがった請求をしなければなりません。
しかし、これらの請求には時間も費用もかかるため、手続をあきらめて結局泣き寝入りをせざるを得ない人が多いのが現状です。
この改正プロバイダ責任制限法は、女子プロレスラーの木村花さんがネットによる中傷を受けた後に自殺したことを契機のひとつとして被害救済のための発信者情報開示請求を迅速に行えるようにすることなどを目的として総務省の研究会等で議論が進められてきたものです。
この改正法によって、発信者情報開示請求手続の迅速化が進むことは間違いありません。
ではこの改正法ができて、ネット中傷やネットによるハラスメントやいじめに対する被害救済が大きく進むかというとまだまださまざまな壁があります。
報道によると、山梨県道志村のキャンプ場で行方不明になった8歳の女児の母親がツイッターで、「母親が犯人」などと中傷する投稿をされるなどで名誉権を侵害されたとして、2021年3月29日、ツイッター社に対し発信者情報開示請求訴訟を起こしたということです。
ただこの訴訟では多くの投稿の中から発信者情報が開示される可能性が高いサイトの投稿に限らざるを得なかったということです(毎日新聞2021年4月21日朝刊)。
このように、サイトによっては、発信者情報開示そのものが難しい場合があります。これがひとつの壁です。
もうひとつの壁は、権利侵害性という壁です。
これは、発信者情報開示請求が認められるための要件の中心になるものです。
権利侵害性というのは、その投稿によって特定の個人の権利が侵害されたことをいいます。
たとえば、「A会社の社長はパワハラ常習犯だ」という書き込みがあったとします。
A会社の社員にとっては、自分の勤めている会社の社長がこのように書かれたことで会社の評判が落ちるのではないかと不安になるでしょう。
しかし、この投稿でその社員の個人の権利が侵害されたわけではありませんので、社長からは請求ができても、その社員からの請求はできないのです。
では、この権利侵害性の権利とは何でしょう。
誹謗中傷の書き込みによって個人のどのような権利が侵害されるのでしょうか。
この権利にはいくつかのものがあります。事例として最も多いのは、名誉権です。
名誉毀損というのは、この名誉権が侵害されたことを意味します。
この名誉毀損は、誹謗中傷があれば当然に認められると思っている人が多いのですが、実はそう簡単にはいかないのです。
名誉毀損による権利侵害には3要件があります。
①公然性
②事実の摘示
③名誉の毀損
です。
①は、ネットは誰でも閲覧できますので当然に要件を満たします。
②は、ある事実を示すことです。「Aは無能だ」「性格がネクラ」などは具体的な事実を示しているわけではないので名誉毀損の対象にはならないのです。
ただこのような内容の投稿は、侮辱行為として権利侵害に当たることがあります。
③は、「社会的評価の低下」と言われるものです。
この要件の中では、③の要件、つまり名誉の毀損といえるかどうかという判断が非常に難しいことがあります。
例えば、クチコミサイトで、「あの店の料理はまずい」と書き込みがあっても、それは個人の感想であり、社会的評価の低下とまではいえないと
判断されることが多いでしょう。
しかし、「あの店は材料の表示を偽っているので料理がまずい」との書き込みは個人の感想ではありませんので名誉毀損になるでしょう。
ただ実際には、このどちらに当たるかという判断が難しく開示請求の壁になることがあるのです。
では、この名誉毀損の3要件が満たされれば権利侵害になるかというとそうではありません。もうひとつ、違法性阻却事由といって権利侵害を否定する要件があるのです。
この違法性阻却事由にも3要件があります。
①公共の利益に関する事実に係ること(公共性)
②もっぱら公益を図る目的であること(公益性)
③摘示された事実が、真実か、
真実であると信じるについて相当な理由があること(真実性)
です。
この違法性阻却事由には、事実を基礎としての意見や論評が書き込まれた場合についての違法性阻却事由もあるのですがここでは省略します。
この違法性阻却事由の要件があるので、発信者情報開示請求ではその書き込みによる名誉毀損が明らかであることに加え
違法性阻却事由があるとうかがわせるような事情もないことも必要とされています。
そのため、発信者情報開示請求において被告のプロバイダは発信者が一応の根拠を示して開示に反対したときは違法性阻却事由があるとうかがわせるような事情がないとはいえないとして開示請求に対して争ってくるでしょう。
このように、請求者が違法性阻却事由の要件についても反論しなければならないということが壁になることがあります。
発信者情報開示請求の壁ではありませんが、ようやく発信者がわかったとして、次に発信者を被告とする損害賠償請求訴訟をして勝訴判決を得ても、発信者の行方がわからなくなったり、損害賠償金を支払わなかった場合に、判決の内容が実現できないことがあります。
この点はSNSによる被害に限ったことではないのですが、壁のひとつになります。
SNSでの飲食店や商品の口コミの中には、名誉権が侵害され発信者情報開示請求が認められると思われるような内容を見かけることがあります。
SNSによるハラスメントやいじめも同じです。
このような被害に対して泣き寝入りすることなく迅速かつ費用がかかることなく被害回復ができるようにするためにはさらに制度設計を進めることが必要でしょう。
ただ忘れてはならないことは、違法な書き込みはいったんそれがなされてしまうと被害回復は非常に困難だということです。
そのことからして最も重要なことは、言うまでもないことですが違法な書き込みそのものの未然防止です。
そのためには、ネットによる名誉毀損についての厳罰化による抑止効果を考える時が来ていると思います。厳罰化については、表現の自由などの点から決して濫用はあってはなりませんが、現状の被害実態からすると、厳罰化を早急に検討すべきではないでしょうか。