現在、英語を使った仕事をしている身分ではありますが、英語の早期教育は「義務教育」の枠組みとしてやるべきではないと思います。
日本国の公用語に英語を含める、というのであれば話は別ですが。
僕は、英→和の翻訳・校正(大半が校正)という仕事をしています。
つまり、売るべき「商品」は日本語の文章になるわけです。
しかし、「これは、ひどい…」と落胆させられるような日本語にお目にかかる機会が、少なくありません。
翻訳者だって、それでお金をもらっているはずなのですが(学生が書くレポートではないので)、「これで対価をもらっていいの?」と思わされてしまうのです。
自慢になりますが、僕が校閲(いまの職場では、校正作業のことをこう呼んでいます)にかかわった仕事では、「初めての高評価」をクライアントからいただいたケースがいくつかあります。
僕だけの力でいただけた評価ではないにしろ、自分の「言葉」のありかたが対価に見合うものである、という自信になったことは確かです。
言葉なんて「正解」があるわけではないので、個性にゆだねられてしまう部分も多いと思うのです。
ただ、正解のないものではあっても、「誰かに判ってもらう」ことが言葉の大切な意義の一つであることは間違いありません。
自己満足に終わることなく、お金を払ってもらえるクライアントにも満足してもらえる。
それが、自分が仕事をする上でのプライドであり、喜びでもあります。
僕自身、実はそれほど英語ができるとは思っていません。
なにせ、昨今の社会で「英語力の指針」とされている TOEIC を受験したのも、はるか5年以上も前のこと。
その時点ですら、730点が精一杯でした。
700点を切ったこともありますし、「英語の達人」などとは口が裂けてもいえません。
会話はいまだに苦手です。
苦手どころか、まともに話せません。
そういういびつな英語力であっても、翻訳・校閲という仕事では評価をしてもらっています。
マニュアルという特殊な世界だから、かもしれません。
最近では、電子辞書やらオンライン辞書やら、はたまた Office と連携できる翻訳支援ツールなんかもあったりして、英語が苦手でも何とか意味は解釈できる、という状況にはなりつつあります。
つまり、英語力なんて「後付け」でカバーできると思うんです。
自分自身がそうでしたから、それは断言できます。
ただ、内部処理は得意であっても、外部への出力がうまくいかなければ、あまりよろしい状況にあるとはいえません。
解釈できたものを、どうやって伝えるのか。
そこが大切になります。
翻訳・校正をやる上で、大切なことは「言葉に対する美意識」を持つことだと思います。
瞬間的な言葉のつながりになる会話では、文法的な不整合が生じたとしても、その場の「流れ」によって解釈できることがよくあります。
しかし、書き言葉では事情が異なります。
文脈という流れに、どうすれば自然に乗ることができるか。
そういうことを常に考えていないと、いい訳文にはなりません。
日本語で使われている文字(ひらがな、カタカナ、漢字など)を組み合わせても、必ずしも「日本語」になるとは限りません。
そういう微妙なさじ加減が、なんともいえずおもしろいのです。
不思議なもので、英語という異なる言語に接することで、かえって日本語がおもしろく思えるんです。
母国語に対する愛着が増す、ってことですね。
最後にひとつ。
「Let it be」という英語、あなたならどう訳しますか?
糸井重里さんが、「ほぼ日刊イトイ新聞」でそのことを書いていました。
個人的には、「目からウロコ」の解釈だったんですけどね。
糸井さんの「答え」は、また次回にでも。
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