Rain dog 日々徒然 風に吹かれて気の向くままに

日々感じたことをつらつら書き綴っていきたい。音楽、植物を中心に。

ホットケーキ とと姉ちゃん周辺

2016-08-05 09:57:25 | 父母
母は私が幼いころホットケーキをよく作ってくれた。時は昭和30年代から昭和40年始め。
とと姉ちゃんでこの間からホットケーキを作ろうとしていて、懐かしさで胸いっぱいになっていたが、あんなに滑らかではなかったと、また疑問も湧いていた。そしていよいよホットケーキ作りの今日、興味津々でこの番組を見た。
水田さんが悪戦苦闘して作ったホットケーキを見て、そうそうこれに近かったと思いつつ次のシーンに目を凝らし続ける。
まず卵白をきれいに泡立てている。多分母は卵を丸ごと泡立てていたような気がする。まずここが敗因第一(ふっくらしていなかった)のような。
次に小麦の入れすぎといっぺんに入れた。お箸ですくったらテレビよりかなりゆっくりと下に落ちるくらいの硬さだったと思う。
ふくらし粉がだまになってなってしまってケーキの中で青くなっていて苦かったりということもよくあった。金のざるででも小麦粉とふくらし粉をよくふるっておけばよかったのだろうが、当時は振い器みたいのは売っていなかった。小麦粉をだまにならないように箸などでならすくらいのことはしていたように思うが小麦粉さらさらという状態からはほど遠かったのだろう。
そしてホットケーキの淵にはいつも段があった。一番外に黒い輪っかがあり次にクリーム色の溝の輪っかがあり、その次にケーキ本体があるのだが、とてもとてもテレビのような滑らかで均一の薄茶色にはなっておらず、水田さんほどはひどくないにしても、水田さん様の出来の表面が広がっているのだ。
それでもホットケーキは楽しみだった。わくわくしながらいつも母のそばで手伝ったりした。

私が小さいころ我が家には「暮らしの手帳」はなかった。「ソレイユ」と名前は覚えていないが芳村真理がよくモデルで出ていた婦人雑誌だけだった。母がどこでホットケーキを覚えてきたか知らないが、もしかしたら今日のとと姉ちゃんのように、上記の雑誌の文章だけの記事で覚えたのかもしれない。

今日の放映でホットケーキの作り方のコツの詳細が分かったので、早速作ってみよう。


ホットケーキについてはもうすっかり大人になってからの苦々しい思い出もある。
もう20年あまり前になるが、新聞で蕎麦とかいくつかの外国で作られるパンケーキの記事を読んだ直後、外国人の人たちと会う機会があった。パンケーキ作りをしてみようと思っていた私は、オーストラリア出身という方にパンケーキの作り方を教えてと聞いた。するとその人はさも小馬鹿にした感じで、「パンケーキなんて粉がどこにでも売ってるでしょう?」と言った。ホットケーキミックスなどの事を言っているらしかった。白人の人は本人はそんなに意識していないかもしれないけれど、アジア人のこちらからするとあからさまに白人優位という雰囲気を醸し出すことがままあるように思うけれど、その時はまさにそんな感じだった。この日本人、パンケーキも食べたことないの?みたいな。
私はインスタント食品に近いものじゃなく母の様に手作りがしたかったのだ。そのあたりもつたない英語で伝えたように思うが、どうやらその人にとってはパンケーキとはホットケーキミックスみたいので作るもので、小麦粉で一から作ったことはないので分からない風だった。
ホットケーキとともに思い出す苦い思い出だ。

ちなみにパンケーキはフライパンで作るケーキ。ホットケーキはその一種で、パンケーキといえば上記の様に蕎麦で作るものあり、まぁ、クレープの厚い版と考えればいいのだろうか。上に色々載せたりもする。





マッサン パン作り( 父の思い出)

2014-11-15 11:27:10 | 父母
NHK朝ドラ「マッサン」で、最近マッサンがパンを作るのに窯を作っているが、それをみていつも父を思い出している。

父も別棟にあった風呂場を立て直した時に出た廃材を使って、パン焼き窯を作った。

父は確かお米があまり好きではなかった。父は新天地の北海道で生まれ育った。大正14 年生まれである。
今でこそ北海道名産のお米があるが、お米は元々は寒冷地には適さないのを、先人達の血のにじむ様な努力の末に北海道でも数々の名産が生み出されたのだと思う。

父が子供の頃は正にその血のにじむ努力の真っ最中で、失敗の連続の時期であったのだろう。お米はできなくはないがひどく不味かったようだ。

子供であった父には、不味いのに作り続ける大人達の神経というか姿勢が理解できなかったようだ。

新天地であればこそ日本人のアイデンティティを持ち続けたくて、先人達は米作りにこだわったのだろうと私は想像するが、子供であった父はそんな印象を根強くもってしまい、パンの方を好んだのだと思う。

そんな父はフワフワではなく硬いパンを食べたかったのだと思う。発酵もさせず、バターも入れなかったかもしれない。塩味位はした様な気はするが、味もほとんどしなかった。
何回かは焼いたと思うが、私が食べたのは一回だけだと思う。

ひどく硬く味もそっけもなく何とも言えないが、ともかく硬いので何回も噛み締めるしかない。するとあら不思議、ある瞬間から何とはなしに旨味の様なものが口のなかにひろがったのだった。唾液の魔法だろうか。
硬いものをよく噛むと食事がおいしく食べられ、健康維持に最適と健康番組などでよく出てくる、それと似ていたかもしれない。

窯はいつものように母の猛反対にあい、暫くして取り壊された。

亡くなった人の悪口はあまり言いたくないが、お父さん、やること為すこと全てお母さんにぶっ潰されてかわいそうだったね。


ウコンの花

2013-10-09 21:29:22 | 父母

母が亡くなり葬儀の準備にバタバタしている時、ふと庭にウコンの花が芽吹いているのに気づいた。

気高く気品あふれ、まるで蓮の代わりに母を迎えに来てくれた様な気がした。

写真では艶やかすぎる感じになるが、生のウコンは蓮より神々しいとさえ感じられる。
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地面から直接生えるので正に芽吹くという感じがするが、綺麗なのは実は葉っぱで、下の方に小さく咲いている地味なものが実は花の様である。


父が好きだったテネシー・ワルツ

2013-09-22 13:41:31 | 父母
父はおよそ生き方の下手な人であった。 というか人とうまく会話を交わす事ができなかった。会話に加わろうと思うのだが、言おうという端から話がどんどん進んでいってしまって、話に加わるタイミングをつかめない様だった。 成人してから祖父母の面倒を見に北海道から父母の故郷の和歌山に帰り、言葉も随分違い、笑われたりした事もないではなかったようだ。 でも、いや、だからこそなのだろうか、純粋な人だった。

綺麗なものが好きだった。 クラシック綺麗だろ、と言った一言は今も鮮明に覚えている。学生時代よくレコードを聴いたようだ。もちろん父の学生時代だからSPレコードである。 後父が好んだのは🇺🇸の流行歌である。あの当時パティ・ペイジなどは日本にどう紹介されたのだろう。戦後直後から暫く🇺🇸由来のポピュラー音楽はすべからくジャズと呼ばれていた様な気もする。

実はパティ・ペイジのテネシー・ワルツ、明確に父がこんな事を言ったという記憶はない。 ドリス・デイのケ・セラ・セラはよく覚えているのだが。 もしかしたらテネシー・ワルツは父も江利チエミでいいなぁと言っていたのかもしれないと最近思ったりもする。
でも私の気持ちの中ではパティ・ペイジのテネシー・ワルツが強烈に父に連なるのだ。
私の中での見事な記憶のすり代わりなのだろうか。

父の葬儀 クイーン 自由への旅立ち

2013-09-22 09:54:28 | 父母
一昨日父が亡くなった。諸事情でバタバタと通夜、葬儀を済ませ、親戚も一旦引き上げて今足を高くしてホッと一息ついているところ。立つ事が多かったので、足がだるい。

音楽が大好きだった父。お通夜の後、父に聴かせてあげようとから好きそうな曲を選んでいて、この曲に来た。父もこの曲なら好きそうな気がしてローテーションをかけて聴いているうちに、うとうと寝てしまった。
姉におんなじ曲ばかり、ええかげんにしてと起こされたのは数時間後。数時間その状況を辛抱する姉の忍耐力も相当なものだ。

今日葬儀後兄弟の家族みんなで夕食をしていて、姉から👆の恨み辛みを暴露された。いや~、クイーンの「自由への旅立ち」てええ曲なんや~、というと姉の息子夫婦が、ええッ、あの曲ってクイーンだったん😱☀️、ええ曲やと言ってくれる。

この曲って有名だったのね。でもクイーンをよく知っていても、クイーンと結びつかない曲なんだ。

2011.8.6