小野田さんが亡くなった。
数年前故郷の和歌山で講演され、そのポスターを目にして、各地を飛び回りながらかくしゃくと過ごされている事を初めて知った。
そして改めて、当時人々がどんなに若くして、苛酷な戦争に駆り立てられていったかという事も痛感した。
1922年生まれの小野田さん、終戦時はまだわずか23才の若者だったのだ。
小野田さんが日本に帰国した時は、確かもうは50は越えていた。そのイメージが頭に焼き付いて、終戦当時まだ20代前半の若者だったという事など気づけなかった。
小野田さんの話で救われると思うのは、小野田さんの上司が、生きて虜囚の辱しめを受けるなとは決して言わなかったらしい事だ。
名前は存じあげないが、ともかく生きよ、と言い聞かせたようだ。
去年の夏、沖縄の戦中最後の知事のドラマを見た。名前は今思い出せないが、その知事も、とにかく生きなさい、軍と共に決して行動してはいけない、と回りの近しい人達との別れ際に言い含めたという。
何人かそう言われた人達がそのドラマの合間に出てきた。
しかし悲しいかな、生きて虜囚の、の生きざまを叩き込まれていた人達は、その時その知事の言葉を理解できなかった。
死になさいと言ってくれる方が嬉しかった、と当時は思ったとの事。
かなり経ってから知事の真意を理解できる様になったという事だ。
戦前の軍国教育の徹底ぶりを改めて思い知ったと共に、いや、生きるんだ、命が一番大事だ、と説いた上官(知事は上官ではないが)もいたという事をこの頃ぼちぼち耳にして、何か救われる様な気がするのである。
小野田さんのご冥福をお祈り申し上げます。
数年前故郷の和歌山で講演され、そのポスターを目にして、各地を飛び回りながらかくしゃくと過ごされている事を初めて知った。
そして改めて、当時人々がどんなに若くして、苛酷な戦争に駆り立てられていったかという事も痛感した。
1922年生まれの小野田さん、終戦時はまだわずか23才の若者だったのだ。
小野田さんが日本に帰国した時は、確かもうは50は越えていた。そのイメージが頭に焼き付いて、終戦当時まだ20代前半の若者だったという事など気づけなかった。
小野田さんの話で救われると思うのは、小野田さんの上司が、生きて虜囚の辱しめを受けるなとは決して言わなかったらしい事だ。
名前は存じあげないが、ともかく生きよ、と言い聞かせたようだ。
去年の夏、沖縄の戦中最後の知事のドラマを見た。名前は今思い出せないが、その知事も、とにかく生きなさい、軍と共に決して行動してはいけない、と回りの近しい人達との別れ際に言い含めたという。
何人かそう言われた人達がそのドラマの合間に出てきた。
しかし悲しいかな、生きて虜囚の、の生きざまを叩き込まれていた人達は、その時その知事の言葉を理解できなかった。
死になさいと言ってくれる方が嬉しかった、と当時は思ったとの事。
かなり経ってから知事の真意を理解できる様になったという事だ。
戦前の軍国教育の徹底ぶりを改めて思い知ったと共に、いや、生きるんだ、命が一番大事だ、と説いた上官(知事は上官ではないが)もいたという事をこの頃ぼちぼち耳にして、何か救われる様な気がするのである。
小野田さんのご冥福をお祈り申し上げます。