tons of knots

からだや頭の凝りをもみほぐして、人との絆や結び目がたくさん出来るといいね。
Innovation To Survive

民主主義の前提。中国共産党結党100年周年を機会に思う。

2021-07-01 06:40:41 | 払暁半刻
 中国では共産党が結党から100年だそうだ。結党集会には50人ほどが参加したという。当時中国には、孫文の流れを引く国民党が存在したから、真に小さな小さな出来事だったはずだ。
 人間の祖先である哺乳類もその出現の最初はごくごく小さく弱い存在だったという。当時はまだ爬虫類やその他の巨大生物がうようよ地球上を跋扈していた。が、今や人間は他の哺乳類を圧倒し、人間社会の営みは地球環境そのものにも大きな影響を及ぼしている。そのほとんどは当の人間社会をも脅かすほどの「悪」影響だ。
 人間社会は、(とても大雑把にだけれど、)民主主義と政治的自由を掲げる国々と、制度上は選挙制だけれど実質は専制・独裁制支配の国々とに分かている。各々の国の姿にはそれぞれの様々な歴史的地理的事情と要因が絡んでいて、各々の国の治め方(統治手法)は千差万別だ。様々な事情の結果なのだから、自分の国の政治体制を基準にして、特定の国の統治手法やあり方を一様に非難するのは、言うのは簡単だけど、拙速、稚拙な批判であると思う。
 それでも、その国の様々な事情を考慮してもなお、そうであってはならぬと判断せざるをえない国もいくつか存在する。北朝鮮や現下のミャンマーなどは典型的なそういう判断をせざるを得ない国だと思う。
 さらに、これまで民主主義のお手本のように思ってきた国でも、指導者が変われば、幼稚で未熟で一方的な、独善的な統治手法しか取れない国もある。そのような時、我々は「えっ、あんな人を支持する国民があんなにたくさんいるの?」というそれまでのイメージを一種裏切られたような気持でただただ驚くしかない。

 僕は幸いにして結構自由な国で暮らすことが出来ている。この国は当然昔からそうであったわけではない。紆余曲折があり多くの犠牲があった。我々の祖父母や父母が育った時代には、多くの人々が貧しく、自分の考えを表明する機会さえなかったし、昭和に入って戦争に負けるまでは、自分の考えを自由に述べようとするだけで身体的拘束があり、命さえ奪われかねなかった。
 民主主義は、多数決原理の制度であると学校では教えられる。民主主義そのものは、資本主義と同じかそれ以上に「頭で」理解するのが難しい制度概念だから、小学生や中学生の年齢の子にはせいぜい「多数決の制度だ」と教えざるを得ない。
 しかし、多数決原理が民主主義のために制度としてきちんと機能するには、その前提となる大切な条件がいくつかある。できればそれらも併せて教えたいのだが、人間が一度に学べるものの数には自ずと限界があるので、どうしてもそれら「前提条件」を教えるのは後回しになるか、興味のある生徒だけの研究課題になってしまう。だから、大切なことが後回しになってしまって、先ほどのように民主主義のお手本のような国でも時に大きな選択間違いを犯してしまう。
 
 さて、ではその「大切な前提条件」とは何だろう。(ここから先は僕の一方的な考えだから、読者は眉に唾つけて見る方がいいかもしれない((笑))
 僕はこう考えている。
① 自由な意見が言えること。そのために、威嚇や身体的な危害が加えられないように「暴力や破壊」の危険がないこと。
② 自分と異なる意見や考えを聴ける寛容さがあること。
③ 他人の意見に対する賛否だけでなく、意見の質と実効性についての良否や出来不出来が判断できること。
④ ①~③の大前提として、嘘をつかないことについて高く強固な倫理感があること。
⑤ 事実や歴史の記録が改ざんされないこと。

 民主主義を制度的に掘り崩そうとする者(民主主義を換骨奪胎するか、その機能を破壊しようとする者)は、まず⑤の改ざんから始めるのが常套手段だ。そして④の倫理観を麻痺させ、我々の③の能力を奪い、②の寛容さを敵視するように仕向け、最後に①を締め上げる。最初に①から始めると今のミャンマーのように囂々たる非難を浴びる!
 国民の安心・安全も、その前提となる統治機構の機能も、さらにその機能を担保する法の支配も、僕の考えでは、これら①~⑤が守られてこそ永続的に維持できる。報道の自由も多数決原理もこれらの制度的前提条件が強固であればこそ、成立する。

 だから、森友問題や公文書の黒塗り公開は、蟻の一穴のように本当は、長期的かつ重大な問題なのだ。
 中国では、共産党が結党100年目を迎えたにもかかわらず、これらの大原則を国民の間で達成しようとする「意識改革」(多くは初等教育でなされる)はされていないようだし、むしろ、④や⑤を”無意識的に”党の支配のためには当然と考えて行っているところにある種の恐ろしさ、さらには共産党の支配の空虚さを感じる。100年前の共産党創立者たちが本当に自分の国の行く末を心配して決起したのだとしたら(僕はそうであったと思っている)、決してそうは考えていなかったと思う。
 今日はお隣の国のめでたい百周年記念日だということなので、我々自身の問題としても考えてみた。          2021・7・1

リンゴ日報、発行停止

2021-06-24 23:38:21 | 払暁半刻
コロナ禍中における日本五輪開催については、今後の日本の行く末を占う際の日本の政治の体質を考える上でとても重要なターニングポイントのようにも思う。
しかし、日本とアジア地域における民主主義のあり様と今後を考える時、香港で起こっていること、特に今日報じられたリンゴ日報の”永久休刊”は、五輪開催などよりもっと重大、深刻な事態だと思う。
 中国は、偉大な国、だった。清朝末期からの西洋列強の支配を呻吟しながら脱し、共産主義(共産主義そのものに対する評価、好悪はあるとしても、ここではそのことはしばらく措いて)を学び、祖国の再興のためにその歴史的現状に合わせた工夫をし、古くかつ悪しき伝統であった中国三千年の皇帝支配型統治システムを一新して新しい国の統治方法を模索してきた。少なくとも「シュウキンペイ」が出現するまでは。
 毛沢東にも鄧小平にも多くの問題があった。政治指導者の後継選出方法など、昔ながらの権力闘争でしか決められず、その点で近代政治思想を内部化できない限界もあったが、同時に、中国にとっては、開国解放、経済発展については日本が、共産党統治についてはソ連が、それぞれ良き先例と共に、悪しき失敗を例示し、そのよき反面教師の教訓を自らの統治に生かそうと努力してきたのではなかったか。中国はそうして、10億超の民の国を再生し民衆の生活を向上させようとしてきたのではなかったか。
 残念なことに、「シュウキンペイ」の出現以来、中国共産党は、国内の経済発展と国民の生活水準向上の結果が自らの党支配を不安定にする要因と化し、ゆくゆくは共産党支配を終焉に導くものと判断したようだ。
 共産党が国の政府の上に立って国民を指導する、という共産党一党独裁のドグマは、我々民主主義国家に生まれ育った者にとってはとても奇妙なものだ。「えっ、国家の政府より共産党の方が上位に立つの? そんなのあり得ないだろう。党は少なくとも「私」の集合体、国は「公」であろう。私が公を独占的に指導する? じゃあ、公とは何なの?」と素直な疑問をつい発してしまう。 それでも、経済的に立ち遅れ、その根本原因が国の社会構造の硬直化と国民や指導層の考え方の”遅れ”によるものであった旧ロシア帝国や清朝中国においては、この奇妙な一党独裁の方法もまた「その歴史的背景を考え合わせれば」致し方のない選択であったかもしれない。
 しかし、旧ソ連でもそうであったように、「シュウキンペイ」の中国でも、この一党独裁のテーゼが独り歩きし始めている。日本の場合にも同じような歴史があった。日本の場合は、「国体」のドグマが明治期から二世代を経て昭和初期には独り歩きし始めた。軍部の言い始めた「統帥権」はいわば「一党独裁の論理」と同類である。軍国主義が国民の生活を脅かし、「真珠湾」によって正当化された冒険主義がやがて個々の戦争作戦遂行までも食い破ってゆく。そして終戦という名の敗戦。
 今の中国の場合、経済発展と国民の民度の向上という社会の変化を無視して、共産党支配の内部構造の改革をあきらめ、今や一党独裁のドグマだけが独り歩きしているようだ。つまりは、権力者の心理に立ち入ってみれば、何のことはない、一度握った権力は手放したくない、手放した途端に政敵による「死」が待っているという中国伝統の権力観。(「権力の罠」)
 「シュウキンペイ」後、中国共産党は、”中国人”(その構成は漢民族だけではないゾ)にとっての祖国を真に偉大にするための政治的、思想的な困難さを乗り越えてゆこうという「勇気」を失ってしまった。「シュウキンペイ」後は、中国の偉大さとは単に「規模的、物量的に他を圧倒する大きさ」に矮小化されてしまっている。他国に脅威を与えることで初めて自分の偉大さを確信できる、あたかもその辺にたむろするゴロツキが肩で「威」を張るかのような「偉大さ」。
 人間でも、企業でも、国家でも同じだが、新しい事態に対処する方法として新しい思考をしようという勇気を失なって努力をせず、旧き伝統に頼るという矮小な考えに陥ったとき、やがては職を失い、倒産の危機に陥り、新たな革命を引き起こす。
 香港は中国の真の偉大さを実現するための「良き先例」「よき出窓」になり得たにもかかわらず、「シュウキンペイ」の共産党は、香港から新しい思考と統治法を学ぶ、あるいは新しい中国の実験場にするという「勇気」を持たなかった。「シュウキンペイ」は、香港を「伝統ある中国」に組み入れ、共産党支配という名の皇帝制支配の下に「皇帝の考えるように考える」ように思想的統一をすることが「香港を治め」中国を治める唯一の方法であると考えているようだ。

 リンゴ日報を休刊に追い込むに至った「シュウキンペイ」が失ったものは大きい。「シュウキンペイ」はやっと喉の奥の小骨を抜いたくらいにしか思っていないかもしれないが、休刊させるに至った「シュウキンペイ」を支えそして実質的にその思考様式を支配する共産党官僚組織の思考はすでに中国歴代王朝の官僚組織が示した弊害の数々を十分に備えているようだ。批判を許さず封殺する組織、自己を客観化して見ることができる仕組みを持たない組織は、必ず硬直化し無謬性の罠にはまり、やがては崩壊への無秩序に至る。
そういえば、歴代王朝は、官僚の思想的腐敗から「虚仮て」いったのではなかったか。
「虚仮る」のが10年後か20年後か、さらにその次の世代か、その時期は分からない。が、必ず共産党一党独裁は虚仮る。すでに経済的繁栄を保証する以外、中国共産党は自己の統治の正当性を主張するものを持っていない。自己を客観化する「眼」を自ら封殺してしまった。中国はこれから本格歴な組織的硬直の時代に入るであろう。
 今後は、中国が虚仮るのが早いか、民主主義国家群が経済的に中国に支配されるのが早いか、その競争であろう(中国共産党がこけた後、中国によりよい統治形態が生まれるという保証も、実はどこにもないのだが)。 いずれにしろ、共産党一党独裁は将来必ず虚仮る。それまで、民主主義は持ちこたえねばならない。
(そういう希望と意思を持たなければ、リンゴ日報永久休刊のこの虚しさと怒りをどう埋め合わせればよいのだ。)          2021・6・25


選挙の公平さについて  Post Cocona World (12)

2020-11-02 16:49:03 | 払暁半刻
「選挙」の公平さについて、米国大統領選と大阪の都構想をめぐる住民投票を考える。

明日は、米国大統領の選挙日です。他国のことではあるけれど、4年に一度だから筆者も生きている間に後こういう機会が8回来るかどうかわからないし、日米安保もあれば、太平洋戦争でこっぴどく負けた後に仲良くなった国だという因縁浅からぬ国のことでもあるので、こういう機会に考えてみてもいいと思います。
米国大統領選挙。
前回までは世界で最も民主的かつ公平な方法によって実施されていると思ってきた米国の大統領選挙でしたが、今年の選挙はまるで19世紀の選挙ではないかと思うほどひどい選挙になりました。現職大統領が選挙の実施前から郵送による期日前投票の「不公平さ」をあげつらったり、相対立する有権者が相互に感情的な敵意を抱いたり、投票所では暴力的な威嚇や、投票後のテロ行為の可能性さえ出てきました。ここ最近、民主主義の劣化が指摘されていますが、現職大統領の言う「公平さ」や「公正さ」は、よく聞いていると、つまり「自陣営に有利であるような」公平、公正さなのだということらしい。こんな現職大統領が21世紀に出現したことに驚きを覚える。さらに、これに対して岩盤支持層が存在するという。米国の有権者の間に潜在的に燻ってきた「民主主義」そのものについての深い闇についても、一種の恐怖を覚えます。

次は、大阪都構想の住民投票について。
 日本では一昨日(10月31日)の日曜日、大阪都構想についての住民投票がありました。賛成、反対ともほぼ半数づつであった中、票数で反対票がわずかに上回って、「大阪都構想」は否決されました。
 民主主義の基本は、過半数を制した方が勝つということ。これは、ことが政治ごとである限り絶対原則です。このルールを崩してはいけないことは誰でも分かります。(因みに、だから、特に民主主義の定着していない国では、この過半数を超えようとして、有権者数や有効投票の総数そのものを操作しようとする輩が出てくる。太平洋の向こうにある国の大統領も、今回の大統領選挙でそのようにしたいという意図が見えます。)
 さて、政治ごとでは「過半数原則」は絶対であるけれど、ここからは「改革」の話、あるいは「競争力」の話。
 企業体質や経営を改革しようとする際のある種の常識は、
①何事につけ改革には反対派や旧守派が存在するもの、
②だから改革賛成派が4割も存在するならば、将来の発展を見据えれば停滞よりは改革を選択するべし。
というもの。なぜなら、改革反対派の意図は現状維持であるのに対し、改革派は将来のあるべき姿を見据えて改革を唱えているわけであって、そもそも立ち位置というか見ている視点が違うということ。これが意味することは、現状を維持して改革が実行されない限り、その後は時間の経過とともに徐々に他の競争者に対して遅れをとってゆく、ということ。
 大阪は、長い間、東京に対して劣勢であったと大阪の人は見ていると思う。大阪の競争相手は東京や他の大都市であるわけです。劣勢の理由は日本の首都ではないからでもあるけれど、どうもそれだけではなさそう。役所の労働組合の裏専従問題などが報道されるたびに、筆者は、大阪という自治体の体質そのものに何かしら旧態依然とした意識があるのではないか、とこれは想像の域を出ないものだけれども、そう感じてします。大阪のいい面はもちろん人情。これは間違いない。でも一般論として、人情が濃すぎてこれが自治体質にまで及ぶと、縁故主義や既得権益保護に繋がってしまう。自治体で縁故主義や既得権益保護が蔓延ったら、それは自治体の一種の私物化、権力の濫用、住民への背信となります。大阪は、例外でしょうか。
 また、大阪都構想が実現したら、そのような体質も自ずから改善されていくでしょうか。筆者には確証はないけれど、今の現状が変化するだけでも数年くらいは変化があると思う。また新たな利益構造が作られて行く可能性はあるけれど、変化しないことには体質が改善されるチャンスさえも生まれない、ということもまた確か。
 ということで、筆者の目から見ると、今回大阪都構想が否決されたことで、大阪に住む人が誇りにできることは、米国と違って、住民投票が公正に行われたこと、かつ票数のカウントも賛成派、反対派、双方が信頼のおけるものであったということだけに終わる可能性があるなあ、と。折角の改革のチャンスを、東京に勝つチャンスを失った可能性はあるなぁと。そういう意味で、いささかの残念さも感じる次第。


脱炭素社会への転換  Post Corona Life コロナ後の世界(11)

2020-10-31 11:47:08 | 払暁半刻
新首相の所信表明演説にあった脱炭素エネルギー社会への転換について、友人から感想を聞かれました。
 次のようなお応えをしました。
 *****
 カーボンゼロ政策の推進への転換は、水俣病などで激化した環境汚染を減らそうと政策転換した時代に似ていますね。
 あの時大きく変わったことは、政策の大転換であっただけでなくて(あまり重要な指摘とは思われてきませんでしたが)、企業が排出する汚染でサラリーマンや工場労働者の家族や子供が健康被害に合っているのだ、これを何とかするのは自分たちサラリーマンの問題なのだという意識転換、対立する立場だと思っていたことが実は自分自身の問題でもあったのだという意識の転換でした。特に企業経営者がその点に気付いたことが重要です。(多くの日本の経営者が実は雇われ社長であって、古典的な意味での資本家ではないということを間接的に再認識したということかもしれません。)
 さらに重要で実質的な大転換は、それまでの経営者は環境投資は企業収益が減ってしまうマイナス要因だとしか見ていませんでしたし、従業員もそのように思い込んでいました(従業員の意識はいつも経営者の意識を映すある意味での鏡です(笑))が、環境投資やエネルギー節約投資を実際にやってみると、実はエネルギーコストの低下や環境改善効果で企業収益が従来より改善することが分かったのです。
 もう少し説明しますと、設備投資をしてその耐用年数以上に使用すると、企業会計的には、耐用年数経過後は減価償却費がコストとして計上されなくなるので、企業収益のアップになるのです。ところが、この収益アップ分は(設備更新はいずれせねばならないものなので)せいぜい5年程度のものですが、エネルギー効率化による収益アップの方は、その後ずうっと続く製造原価の低減効果なので、結果的にはエネルギー効率の高い設備に早く更新したほうが長期的な収益増を見込める(また、それだけエネルギー効率のよい最新設備を日本では作れる)ということになり、この収益改善メカニズムがだんだん理解されてきました。(⇔ 反対に、減価償却済みの設備を使い続けて収益アップを目論んだのが福島第一原発ですね。結果は東北大震災でご覧のとおり、経営リスクも無視したために東電そのものを揺るがす大惨事となりました。)

 脱炭素社会への転換も似たようなメカニズムが期待できます。例えば、風力、地熱、波力などの自然エネルギーを地産地消すると、超遠距離送電による電力ロスが無くなるなどで、自然エネルギーの方が結果的に最終投資額が少なくて済むかもしれない(さらに遠距離送電設備が不要になることで投下資源量の削減効果もあります)。一方で、自然エネルギーへの設備転換で新たな設備投資需要は発生します。(だから、やる気さえあれば、仕事が無くなるわけではなくて即失業ということにはならない。要は、脱炭素社会への転換スピードが雇用や産業構造の変化と収益的にシンクロしたものになるかどうか。)
 さらに、そもそも、輸入石油に頼ったエネルギー供給が自国産の自然エネルギーによって代替されますし、かつ、初期には国費の投入などの工夫が必要ですが石油よりも原価そのものが安くなる余地が十分にある。この辺りは、投資と減価償却、大量生産による設備価格の低下など、様々な要因で長期的に可能になる可能性が大いにあります。(環境投資も最初は、高い高い、割に合わないと叫ばれていました。)
 また、従来は石油社会でしたので、どうしても米国資本の石油採掘業者(いわゆるエクソンを含めた石油メジャーです)の供給力に頼ることになったわけですが、それは結果的に米国のエネルギー安全保障の枠組みに組み込まれることを意味しました(そのこと自体を否定しているわけではありまん。安全保障と民主主義の定着といった面と合わせて見る必要があります)。このような石油社会の特性は、日本自体で核技術者を温存したいという意図と合わせて、経済産業省がエネルギー政策(原発も含めて)で隠然たる力を持ってきた理由の根本にありました。しかし、今や米国は「自国優先お山の大将」政策で安保の先行きも万全ではないという前提で日本の安全保障を考えざるを得ない時代になってきています。さらに、悪魔の均衡といわれる核抑止力のメカニズムも再検討する時期にきています。

 今回の所信表明演説は、エネルギー供給をより自国産依存に転換できることや、日本の機械設備投資の更新・促進につながること、米中問題も含めて日本の安全保障環境の変化等についての認識なども巻き込んで、政策大転換の表明であったと思いますが、その与える影響の時間的な長さや深さ、各企業・産業界の受ける影響、外交政策の組み換えなどについてどれほど深刻な影響があるのか、今の段階で我々庶民には(方向性と事の重大さは理解できても)到底予測がつきません。
 ということは、当局者はこれを「正しく」評価し、狭い省益に囚われている暇はありませんし、政策転換によって到来する日本の未来を慎重に推し量っていかなくてはなりません。単なる見栄えの良い「今はやりの政策」を採用するという薄っぺらな意識では、我々の国を危うくするだけです。(話が大きくなりすぎてしまいましたが、それでも、そう考えざるを得ません。)

2020年11月2日の追記
 その後の報道では、石油石炭火力の代替エネルギーとして、原子力発電の比率も増えるのではという報道があった。
 原発即時廃棄は現実的な対応ではないとは思うけれど、「脱炭素+脱原発」社会を目指して転換を進めなくては。又、2050年までの超長期目標であれば十分可能な選択だと思う。政策ではなく、単なるビジョンだと批判する者もいるけれど、技術と産業が巨大化すればするほど、方向転換には時間がかかるのは当たり前。要は次世代まで世代を跨いで「やる気」があるか、それだけ我々に知恵があるかどうか、だ!


雑草を抜きながら考えたこと  Post Corona Life コロナ後の世界 (10)

2020-10-14 07:52:53 | 払暁半刻
庭の雑草を引きながら考えました。
 うちの小さな庭には芝生を植えていますが、近ごろドクダミが出てきた。ドクダミは乾燥させればドクダミ茶にもなるから必ずしも害ばかりの草ではないけれど、芝生の中に出て来てしまっては如何にもよろしくないので、やはり雑草とみなさざるを得なくて、せっせと草むしりするしかない。ドクダミを抜きながら、ドクダミ畑でもあればそこでは雑草扱いされないだろうにとも思った。
 そこでふと近ごろほとんどいつも一面に出てくる中国のことを考えた。中国もドクダミ草みたいなものかと。芝生の中に生えて来るから抜かねばならぬ。そうせねば、やがて芝生を駆逐してしまうだろうから。見ていると、どうもドクダミの方が威勢がよくて、更に困る。芝生を守ろうとすれば、やはりドクダミを雑草として扱って抜かねばならぬ。芝生とドクダミがうまく互いに生えている場所を分けてくれて、生えてくれれば、ドクダミを雑草と扱う必要もないし、抜く必要もないのだが。
 彼の国にも人口が多くて何とか皆を食わせねばならぬとか、様々に、彼の国なりの事情はあろう。あろうけれども、折角平和な海であったところに出てきて、しかも自国民保護を目的に武装した船を航行させるようになっては、やはり芝生の中のドクダミだと思わざるを得ない。
 近代以後、社会の経済は、物物交換や物とお金を交換する売買で成り立っている。大昔は、まず領土的占領と支配があってその上に交易が成立していた時代だと言えると思う。それでも遠くエチオピアのシバの女王の時代から、領土的野心よりも交易による繁栄を重視した国や時代はあった。そうはいっても、現代でも米国は強大な軍事力でしょっちゅう戦争をしているではないかと言う人がいるかも知れない。確かにその一面はある。特に自国の裏庭と米国が思っている南米や、石油資源の豊富なアラブの世界では、米国に非のあるところもある。それでも、世界の多くの海域で、国際法が確立して各国の領海は守られてきたし、多くの国がその恩恵に預かってきた。特に西太平洋から東シナ海についてはそうだ。
 我が家の庭もそのうちドクダミが生え繁る時期が来るのであろうか? その時、ドクダミ以外の花や草は生き延びられるのだろうか。米国の海軍力が海洋の国際法秩序を維持してきたともいえる太平洋戦争後のこれまでと、やがて時代を経て中国流の海洋秩序となった時代が来るとして、どちらの時代がより周辺各国にとって、そしてそれらの国に住む各国の国民にとって、自由なのだろうか。
 中国流の海洋秩序になった時代に、中国は「民主的でより開かれた海洋秩序」を周辺国に提供してくれるだろうか。中国三千年の歴史は、中国の人たちに自由で民主的な政治を経験させてくれただろうか。中国の人たちはこれまで経験もしていない「自由で民主的な体制」を今後の学習で身に付けることができるだろうか。習さんの「習」は習うという意味だけれど、皮肉なことに習さんの学習科目は「自由」とか「民主」とかではないらしい、というか、学習するのをあきらめた観さえある。
 ドクダミは乾燥させればお茶になり身体にいいことは確かだから、ドクダミがこの世からなくなってほしいなどとは思わないし、ドクダミ畑で繁茂するなら、お茶がたくさん出来てくれればいいと思う。
 でもやっぱり、どう考えても、芝生の中にドクダミは生えて欲しくはないなあ、芝生が駆逐されては困るなあ、とドクダミをむしりしながら考えた。