tons of knots

からだや頭の凝りをもみほぐして、人との絆や結び目がたくさん出来るといいね。
Innovation To Survive

「参加することに意義がある」五輪精神再考

2021-07-08 22:23:08 | 払暁半刻
以下は、独り言である。主体的に関わっていない以上何を言っても無責任な言い様になりそうで、その点が気掛かりなのだ。だから、独り言ということでご容赦いただきたい。

 五輪はとうとう無観客開催となるようだ。
 クーベルタンの言葉かどうかは詳しく知らないけれど、子供のときから「参加することに意義がある」というのがオリンピック精神だと教わってきたし、運動音痴な僕はそのことにいつも少し安堵感と居場所を感じてきたものだ。
この「参加する」とは、選手が大会に参加することだけではなくて、オリンピックの会場に見に行く人、テレビで見る人、仕事をしながらレースの結果を気にかける人、そんな選手ではない観客側の人も等しくオリンピックに関心を持ち気持ちの上だけでも「参加する」という、その気持ちが大切なんだということなのだと、僕は勝手に理解している。
 オリンピックはだからみんなが参加する「祝祭」なのだ。盆踊りの列に飛び入り参加するときのあの高揚感と一体感を感じたいと切実に思う人恋しさ。そんな気持ち。オリンピックは祝祭なのだ。金メダルだけではない。レースで敗れた選手であっても、全力であったか、自分の限界に挑戦したか、とただそれだけを見たいがためにオリンピック競技を見ている人は案外多いのではないか、と思う。

 かつて、オリンピックを国威発揚の場にすり替えた「不届き者」が第二次大戦前のドイツにいた。その後、オリンピックは多くの国の指導者や官僚にとっては国威発揚、スポーツ関係者もその勢いに乗って「メダルの数が全て」みたいになってしまったけれど、それだけじゃない。
 戦後、悲惨な戦災からの復興と平和の象徴になって、しかもテレビ中継でみんなが試合を見られるオリンピックが戻ってきたとき、オリンピック精神は祝祭として再定義されたのだ。日頃生活が大変で望んでも中々手に入らぬ平安と安らぎと幸福感をオリンピックの開催中だけは味わえる、そんな祝祭の一瞬。

 しかし、今回はいささか様相が異なる。飲食店や音楽関係などは緊急事態宣言で耐えるに耐えるしかない。若者だってワクチン接種を後回しにされて、とても「みんなで一瞬でも祝祭で夢見よう!」というわけにはいかない。 主催者側で働く人の多くも、見通しの立たず状況が急変する中、目の前の難題をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、残業残業の毎日かもしれない。 出場する選手だって、最高のパフォーマンスをと意気込んでも、観客がいないゲームでモチベーションを上げなくてはならないし、そもそも、このコロナ禍とコロコロ変わる事態さえ無かったら、自分が代表になれていたかもしれないと(もちろん基本的に他人のせいにはしたくなくても)忸怩たる思いの選手も多いのではないかと思う。

 そんなこんなで、今回は、みんなで祝祭に参加しようという熱気の失われたオリンピックになる可能性大である。これはコロナが去ったら自然に元に戻るかな? おそらく今後、IOCはオリンピック開催の存在意義を再考せざるを得ないと思う。ただでさえ、商業主義だ、お金がかかり過ぎだ、開催候補都市が少なくなってきた、といわれる中、このコロナ禍中の東京大会はオリンピック運動の大きな転機になるように思う。
 原点に帰れ! 髭のクーベルタン男爵はそう言うのではないか。もちろん、先見性に富み祝祭空間をよく理解していた彼なら、オリンピックファミリーと言われる特権的なグループにも「時代が違うだろう。21世紀はすでに貴族の時代でもないし、これを機に少しは考え直したらどうだ」とも言うに違いない。

 それにしても、昨年の延期決定から1年。この1年は貴重な1年だった。「延期」だから時間との勝負であることは最初から明らかだった。昨年から今年の7月をターゲットに時間を逆算して、ワクチンの準備に先手を打ちつつ、人とものと金と時間の無理無駄をなくして機能させ、計画的活動閉鎖をしていたら、と悔やまれる。そのためには、国会は与野党あげて法を臨時的に期限付きで改正して制度的手当をし(なにせ五輪は国家イベントなのだから。もっと言えば新型コロナは文字通り掛値なしで全国民すべてが関わらざるを得ない事態だから)、官僚は頭を柔らかくして、直面する新事態に発想の大転換して国会議員の先生方のご注進する必要があったかもしれない。

 新型コロナだけだろうか。線状降雨帯にミイラレタラ、大洪水になる可能性は日本中どこの町でも十分にありそうだし、60年以上関東には大地震が起こってないけど地震だけは洪水の時期には待ってくれるという保証はどこにもないわけだし。東シナ海をはさんでお隣の国々では、戦後70年以上(世代にして2世代)も経ったのに何等の民族的進歩もないように考え方は先祖帰りしてしまったようで、「強国だ」「強国だ」と、現代における真に強い世界帝国とはどのようなものであるかも分からずに、19世紀的アナクロな「富国強兵」を主張しているし。

 菅さん、この秋の総裁選や衆議院選挙の戦術に頭と時間を使うより、そんなことはさっぱり断捨離して、これらの難題の解決方法に正面から取り組んで政治の真剣勝負をした方が、選挙の得票率は多分確実に上がりますよ。そんな捨て身になれるかな。    (2021・7・8)


大谷人形、と後日譚

2021-07-02 18:21:54 | 小話 short-short 笑人笑人
小話である。他意はない。でも、後日譚は笑えない。

GG MLBのオールスターに大谷が出るだって、うれしいねぇ。ほんと。アメリカで通用する外国人の二刀流というのも前代未聞で凄いことだけど、彼の人柄も皆から愛されているようで、素晴らしい。

BB (TV画面を見ながら)あれ、東海岸で売られてる大谷の人形が映ってる。あれって、バットの握手が左右逆じゃない! あっ、首をくるっと回して左打者にしてるだけなんだ、きっと。

GG あっ、ほんとだ。粗悪品だね。・・ 中〇製だったりして。

BB そうかなぁ? 日本製かも。30年以上検査偽装してきた会社だってあるんだから。                (ここまで、2021・7・2)

後日譚  (2021・7・3)
BB そういえば、35年も検査偽装してた例の大会社、社長が引責辞任したんだって。

GG おっ、ずいぶん早いねぇ、どこかの首相と違ってすぐ辞任するというのは潔い。
あの会社は昔からの大会社だね。だからかもしれないけれど、各地の事業所は独立採算で発言力が強くてそれぞれが独立の会社みたいなものらしい。あの社長がもしこの検査偽装を知っていても、社長の鶴の一声で止められたというほど簡単な話じゃないんじゃないかな。長崎製作所の所長から「大丈夫です。うちの製品の強度と安全には問題ありませんから。特に顧客が指定した検査をしなくても問題ありません。手間とコストがかかるだけです。」なんて大見え切られたら、「はい、そうですか」って言うしかなかった、そんな感じじゃないかな。顧客がしている検査をしなくても、伝統と技術力のある自分たちの安全基準の方が優れている、だから安全、大丈夫! みたいな考え方かな。まっ、いってみれば、「伝統ある独善」(笑)だね。

BB へえー、そうなんだ。もしそうなら、社長も組織の犠牲者っていうわけ?。なんだか変。じゃ、社長が辞任したからって、会社の体質が変わるかどうかはわからないんだぁ。

GG そういえば、かの「中〇」っていう国も、最近は「強勢大国」とか言ってるらしいね。でも、どこの国からも、怖がられてはいても「尊敬」されてはいない。はっは、それじゃぁあの国は「独善強国」かな。

BB 独善って、いやねぇ。押し付けがましくて、上から目線で。そんな風に見られたら、ご近所さんから煙たがられる。気を付けなくっちゃ。
                           ー おわり ー


 



民主主義の前提。中国共産党結党100年周年を機会に思う。

2021-07-01 06:40:41 | 払暁半刻
 中国では共産党が結党から100年だそうだ。結党集会には50人ほどが参加したという。当時中国には、孫文の流れを引く国民党が存在したから、真に小さな小さな出来事だったはずだ。
 人間の祖先である哺乳類もその出現の最初はごくごく小さく弱い存在だったという。当時はまだ爬虫類やその他の巨大生物がうようよ地球上を跋扈していた。が、今や人間は他の哺乳類を圧倒し、人間社会の営みは地球環境そのものにも大きな影響を及ぼしている。そのほとんどは当の人間社会をも脅かすほどの「悪」影響だ。
 人間社会は、(とても大雑把にだけれど、)民主主義と政治的自由を掲げる国々と、制度上は選挙制だけれど実質は専制・独裁制支配の国々とに分かている。各々の国の姿にはそれぞれの様々な歴史的地理的事情と要因が絡んでいて、各々の国の治め方(統治手法)は千差万別だ。様々な事情の結果なのだから、自分の国の政治体制を基準にして、特定の国の統治手法やあり方を一様に非難するのは、言うのは簡単だけど、拙速、稚拙な批判であると思う。
 それでも、その国の様々な事情を考慮してもなお、そうであってはならぬと判断せざるをえない国もいくつか存在する。北朝鮮や現下のミャンマーなどは典型的なそういう判断をせざるを得ない国だと思う。
 さらに、これまで民主主義のお手本のように思ってきた国でも、指導者が変われば、幼稚で未熟で一方的な、独善的な統治手法しか取れない国もある。そのような時、我々は「えっ、あんな人を支持する国民があんなにたくさんいるの?」というそれまでのイメージを一種裏切られたような気持でただただ驚くしかない。

 僕は幸いにして結構自由な国で暮らすことが出来ている。この国は当然昔からそうであったわけではない。紆余曲折があり多くの犠牲があった。我々の祖父母や父母が育った時代には、多くの人々が貧しく、自分の考えを表明する機会さえなかったし、昭和に入って戦争に負けるまでは、自分の考えを自由に述べようとするだけで身体的拘束があり、命さえ奪われかねなかった。
 民主主義は、多数決原理の制度であると学校では教えられる。民主主義そのものは、資本主義と同じかそれ以上に「頭で」理解するのが難しい制度概念だから、小学生や中学生の年齢の子にはせいぜい「多数決の制度だ」と教えざるを得ない。
 しかし、多数決原理が民主主義のために制度としてきちんと機能するには、その前提となる大切な条件がいくつかある。できればそれらも併せて教えたいのだが、人間が一度に学べるものの数には自ずと限界があるので、どうしてもそれら「前提条件」を教えるのは後回しになるか、興味のある生徒だけの研究課題になってしまう。だから、大切なことが後回しになってしまって、先ほどのように民主主義のお手本のような国でも時に大きな選択間違いを犯してしまう。
 
 さて、ではその「大切な前提条件」とは何だろう。(ここから先は僕の一方的な考えだから、読者は眉に唾つけて見る方がいいかもしれない((笑))
 僕はこう考えている。
① 自由な意見が言えること。そのために、威嚇や身体的な危害が加えられないように「暴力や破壊」の危険がないこと。
② 自分と異なる意見や考えを聴ける寛容さがあること。
③ 他人の意見に対する賛否だけでなく、意見の質と実効性についての良否や出来不出来が判断できること。
④ ①~③の大前提として、嘘をつかないことについて高く強固な倫理感があること。
⑤ 事実や歴史の記録が改ざんされないこと。

 民主主義を制度的に掘り崩そうとする者(民主主義を換骨奪胎するか、その機能を破壊しようとする者)は、まず⑤の改ざんから始めるのが常套手段だ。そして④の倫理観を麻痺させ、我々の③の能力を奪い、②の寛容さを敵視するように仕向け、最後に①を締め上げる。最初に①から始めると今のミャンマーのように囂々たる非難を浴びる!
 国民の安心・安全も、その前提となる統治機構の機能も、さらにその機能を担保する法の支配も、僕の考えでは、これら①~⑤が守られてこそ永続的に維持できる。報道の自由も多数決原理もこれらの制度的前提条件が強固であればこそ、成立する。

 だから、森友問題や公文書の黒塗り公開は、蟻の一穴のように本当は、長期的かつ重大な問題なのだ。
 中国では、共産党が結党100年目を迎えたにもかかわらず、これらの大原則を国民の間で達成しようとする「意識改革」(多くは初等教育でなされる)はされていないようだし、むしろ、④や⑤を”無意識的に”党の支配のためには当然と考えて行っているところにある種の恐ろしさ、さらには共産党の支配の空虚さを感じる。100年前の共産党創立者たちが本当に自分の国の行く末を心配して決起したのだとしたら(僕はそうであったと思っている)、決してそうは考えていなかったと思う。
 今日はお隣の国のめでたい百周年記念日だということなので、我々自身の問題としても考えてみた。          2021・7・1