東京横浜三線道場♪島唄のたのしみ

沖縄から金城盛長先生をお迎えし、ゆんたくしながら八重山、沖縄本島、宮古島の唄を教わり楽しんでいます。初心者歓迎♪

目標は、沖縄の地元のおじいやおばあの前でパッと弾けること―――Taisyoさん

2016年06月19日 | メンバー紹介

目標は、沖縄のおじいやおばあの前で
パッと弾けること

―――Taisyoさん

 

金沢美大に在学中、部活で沖縄三線に触れ、就職で上京。
その間、ずっと金城盛長先生に師事して15年。

東京横浜三線道場の名デザイナーとして、
手がけたパンフレット、手ぬぐい(ティサージ)は数知れず(写真の手ぬぐいもそのひとつ!)。

通称「Taisyo」に熱く語ってもらいました。

 

お祭りやお寺で演奏した学生時代

-学生時代、三線を部活動でやっていたそうですが、そのきっかけは?

アコースティック系のカントリーとか、フォークとか、音楽、とくに生音を聴くのが好きで、大学に入ったら何かしら楽器をやってみたいと思っていたし、映画「ナビィの恋」やNHKドラマの「ちゅらさん」、BEGINが「オモトタケオ」をリリースしたりと、沖縄的なものが世間で盛り上がっていた背景もありました。
海から遠く離れた場所で育ったので、真っ青な海のイメージがある沖縄に対するあこがれも心のどこかにあったのだと思います。
三線の部活に入ったのは、ある日、体育館の2階の部屋から、部活の先輩たちがヒヤミカチ節をやっていたのが聴こえてきて、むちゃくちゃカッコイイな、と思って。

-その当時から、定期的に金沢に指導に行かれていた金城盛長先生とそこで出会ったんですよね。
  どんな部活動だったのですか。

金城盛長先生に来ていただいていたので、最初から「白保節」や「新川大漁節」をやっていました。
あとは、「十九の春」「ハイサイおじさん」とかですかね。…ただ、ほぼ弾けないですから、出だしとかだけですね(笑)。
能登に公演に来た古謝美佐子さんに「僕ら金沢で三線をやっているんです」と言うと宿に招いてくれて、古謝さんの曲をいっしょに弾いて教えてもらったこともありました。

文化祭で発表するために練習したり、地域のお祭りに呼ばれたり。
大学の近くのお店の人が学祭を見に来てくれていて、「うちの店でもやってよ」とか。
お寺で「太陽(てぃだ)ぬパーリー」と銘打って自主公演をしたり。
まあいろんなところでやりましたね。小さなステージですけど人前で弾く機会は結構ありました。
追い出しコンパでは深夜、金沢の商店街で半裸の男たちが「新川大漁節」を歌いながら卒業生をかついで投げたりして、すげぇ迷惑ですよね(笑)。

 

初めての八重山旅行で
心にくさびが打ち込まれた

-大学在学中の初めての沖縄旅行がいきなり八重山でした。

主に石垣島と竹富島です。BEGINの「竹富島で会いましょう」の影響で、とにかく「竹富島に行きたい」っていう気持ちがあって。
先に部活で三線に触れてはいましたが本当にくさびが打ち込まれてズドンってきたのは、沖縄に行ったのが大きかった。三線をかついで行くと、島の人によく声をかけてもらえます。
いろんなところで「弾いてみろ」とか言われる。
でも弾けないじゃないですか。
それで、弾けたらいいなと思ったんです。
三線って楽器なんだけど、コミュニケーションツールみたいな。
海外に行ったときに英語をしゃべれるといいな、みたいな感覚です。

石垣島で居酒屋に行くと、酔っぱらったおじいが店に飾ってあるお面をパカッとはずしてかぶって踊りだすわけですよ。それがメチャクチャ上手い。
本場なのだから当たり前だけど、踊りも音楽もすごくよかった。
地元の人が勢いで弾いている三線が、生活に根ざしてる感じでなんかいいなあって。

-好きな島唄は?

多すぎて決められません(笑)。でも、あえて言うなら「とぅばらーま」でしょうか。
初めて聴いたとき、こんなに少ない音数と短いことばでこんなにも美しい音楽ができるんだ、ととても衝撃を受けました。
その昔、農作業の帰り道に掛け合いで唄われたという歴史とか、歌詞が無数にあって、
今も大事に歌い継がれていることとか、とてもロマンがあって、自分の中で島唄を象徴する曲ですね。

 

 学生時代の八重山旅行。川平湾近くの待合所にて

 

 学生時代。石垣島の宿で。

 

 

自分が好きなものを同じように
「好き」と言ってくれる仲間がいる

-東京で就職してからは、東京横浜三線道場に移って続けています。

金沢時代から金城盛長先生に教わっていたので、東京横浜三線道場に移っても違和感はありませんでした。
師匠がいないと沖縄ポップスで終わってしまうところが、ちゃんとした民謡を教えてもらえる。
金城盛長先生がいらっしゃるから、三線を続けられるのだと思います。
いま、家から2時間くらいかけて稽古に通っているのですが、通える範囲だし。

-金城盛長先生のどのようなところに魅かれますか?

 まじめだけど自由というところですかね。伝統は守る、でも音楽って自由なものだという。

-これからの目標を聞かせてください。

 「早弾き」というと沖縄本島の民謡というイメージが強いですが、八重山民謡にも中テンポの明るい軽快な曲がたくさんあるので、もっと知りたいです。
もちろん「とぅばらーま」のような大きな曲にも、長い目で挑戦していきたいです。
あと、自分の課題としては、イベントなどでその場の雰囲気に合わせて喜んでもらえる曲を弾けるような、「現場力」も身につけていかないといけないな、と思っています。

-「現場力」ですかあ(遠い目)。どんどんイベントに出たりして、みんなで高めたいですね。
  ところで、昨年は琉球民謡音楽協会の民謡コンクールでも最高賞に合格しました。

 新人賞は2回目、優秀賞は3回目で合格したので順調じゃなかったです。
でも落ちてもへこむことはなかったですね。
コンクールは自分の唄三線の悪いところを確かめられる場ですが、コンクールで賞をとることが目標ではありませんでした。
僕の最終目標は、沖縄に行ったときにおじいやおばあがいて、お酒を飲んで盛り上がったときにパッと弾けることですから。

-なるほど、やはり「現場力」ですね。
  改めて、東京横浜三線道場の良さはどんなところだと思いますか?

まず、というかそれが全てですが金城盛長先生から本物の沖縄民謡を生で聴け、対面で教えていただけるということ。
先生の人柄や指導方針、思いがあるから東京横浜三線道場も続いているのだと思います。
社会人になると、目標がないと続けにくいものですが、発表会や、試験など、自分の位置を教えてくれるイベントがいろいろあるのも良いと思います。
それでいて雰囲気はおしつけがましくなく自由です。

じつは、東京に出てきたばかりのころ、関東のことをよく知らなかったのですが、どこに何があるとか、どこで何が売ってるといったことも、三線道場のお姉さま方にたくさん教えてもらいました。
というか皆さんいい意味でおせっかいです(笑)。

-ああ(笑)。「お姉さま方」はオトナなのでいろいろ知ってますからね。

お姉さま方は民謡のCDもたくさん持ってるし、沖縄についても「ここに歌碑がある」とか「どこの店がおいしい」「こういうルートで行くといきやすい」とか細かい現地情報をたくさん持っている。
その情報の濃さはすごいですよね。もはや沖縄に家まで持っている方もいらっしゃるし(笑)。

-確かに(笑)。

学生時代はともかく、社会人になるとなかなかそういう情報が入ってこないので、すごく貴重なんですよ。
どんな趣味の世界も一緒ですけど、マニアックな話が通じる仲間がいるというのはいいですよね。
自分が好きなものを、同じように好きと言ってくれる人が周りにいるのは、とても素敵なことだと思います。

 

 

金城盛長先生が指導する東京横浜三線道場は、随時会員募集中です。
あなたも三線を学び、島唄を楽しみませんか?

 【見学希望・入会についてのお問合せはメールでどうぞ!】 info34n@gmail.com
★ブログランキングに参加しました。ポチッとクリックお願いします


『そこに三線がいる』と思うと癒されます。―――Y.Iさん

2015年02月08日 | メンバー紹介

 

週に3回、4時間くらいかかる人工透析を続けながら三線を楽しみ、
沖縄旅行もし、長距離ドライブも楽しむアクティブなYさん。
今回は、ムードメーカーのYさんのトークが炸裂しました。


―沖縄音楽にはまったきっかけは。

最初に三線を聴いたのは西表島。由布島にいく水牛車の上で、おじさんが弾いてくれたの。
曲は何もわからなかったけれど、三線の音色が良くて、いつか弾いてみたい、機会があれば習いたいと思っていました。
音楽?これまでは特に何もしてないです。氷川きよしの追っかけだけ。でも唄は好き。カラオケにはずいぶん月謝を払いましたよ。
飲めないのに、スナックに飲みに行っては唄って、お店に月謝をたくさん払いました。

―で、実際に三線を習い始めてどうですか?

三線を弾くだけかと思ったのに、唄がついてたから「うわぁ失敗した」と思いました(笑)。
唄はいいのよ、好きだから。でも三線も弾かなきゃいけないから。芸能人の歌手は唄だけでいいのだもの、「氷川きよしはいいなあ」って思ったわよ。
でも、月1回の初心者クラスは毎回宿題が出るんで、一生懸命やりましたよ。
今なら「じんじん」とか簡単に弾けるけど、最初は精一杯で、ウマの向きすらわからなくて、(先輩の)K原さんを呼び出して練習しました。
K原さんには私が一番お世話になったと思います。

 

―習い始めてから2年経たないうちに、沖縄でのコンクール新人賞に挑戦。Yさんはそのムードメーカーでした。

師匠が「新人賞だけは受験してほしい。勉強の仕方が身につくから」とおっしゃったので、一緒に習っていた初級クラス同期の人たちに、「1人で出るのもみんなで出るのも一緒だから(?)、みんなで出ましょうよ!参加することに意義がある!がんばろう!」と誘って4人で出ることになりました。それからは毎日、5分、10分でも練習しました。

-コンクールの舞台はいかがでしたか。

私、唄う順番が1番だったんです。
本番前に一度舞台の上に立ちたいな、と思っていたんですけどオロオロしているうちに始まっちゃって。
舞台に立ってからは師匠にいわれたとおり、目線は動かさず、客席に誰がどこにいるのかも、聴きにきてくれた主人がどこにいるのかも、審査員の先生方が何人いるのかも、何にもわからないまま唄いました。

-その結果、初挑戦で見事合格。

少し間違えたのでこれはもうだめだと。主人も「また来年ついて来なければならないな」と思ったそうです。
師匠に「すみません、また来年リベンジします」と。気が重くて、暗~い気持ちで、半べそかきながら翌日、石垣島に行ったんです。
合格発表はその翌日で、夕方、サンセットディナークルーズに行く途中、K原さんから「受かったよ」という電話が。
それからはルンルンの旅でした。

―週に3日間、人工透析治療を受けながらお稽古を続けています。

透析開始から10年目になります。
不整脈と吐き気でしんどくて、透析の翌日は会社に行っても午前中は動けなくて横になっている状態です。
道場に入って数か月は、いつも「練習しなければいけない」という焦りがあったんですけど、体調が悪くて練習もできない。
それで、数か月たってからは「もう焦るのはやめよう。生ライブを聴きに行くつもりでとにかくお稽古に行こう」と決めてからは楽になりました。
家にはいつも三線が立ててあるんですが、それを見て「ああそこに三線がいるんだなあ」と思うだけでも癒されますね。
家ではいつも具合が悪いんですが、お稽古に行って帰ってくるとものすごくテンションが上がって元気になっているそれを知っている主人はいつも「稽古は休まず行け」と言うんです。

-最後に、東京横浜三線道場の良いところを教えてください。

みんな仲良し。新人も旧人も関係なく、みんな分け隔てなく仲良しなのがいいと思う。
師匠の人柄でしょうね。みんな親切だから誰でも入れる。
個性豊かな人たちなのに、団結力はすごいです。

 

現在、Yさんは怪我のあとのリハビリのため、休会して静養中です。
でも、昨年の合同発表会の際には横浜からはるばる沖縄まで来てくださりやっぱりアクティブ。
早くお元気になって東京横浜三線道場に戻ってきてくれるのを待ってます!

 


東京横浜三線道場は、会員随時募集中です。
いっしょに島唄を楽しみませんか?

見てるだけより何倍も楽しい!!唄える人生の扉をあけよう

 

【見学希望・入会についてのお問合せはメールでどうぞ!】 info34n@gmail.com
★ブログランキングに参加しました。ポチッとクリックお願いします


ライブ大好き。「聴く」側から「弾く」側へ---J.Hさん

2013年06月01日 | メンバー紹介

2人目は、沖縄音楽ファンとしてのキャリアの長さは当道場トップともいえるHさんです。

もっぱら「聴く」側だったHさんは、
いつしか三線の音色に惹かれ、
当道場に入って「弾く」側へ~。


 

―沖縄音楽にはまったきっかけは。

もともと、演劇を見るのが好きだったんだけど、20年ほど前、たまたま観た芝居に平良とみさんが出ていて、その劇中歌を若かりし頃の新良幸人さんがバックで歌ってたのね。まだパーシャクラブ結成前です。「すごくいい声だなあ」と思ったのがきっかけで沖縄の音楽を聴くようになり、時々沖縄にライブを聴きに行っていました。

 

 

1998年ごろ、石垣島の民謡酒場「安里屋」で。
左はタイニードラゴン(高幡不動)の森久保慶子さん。


―沖縄にライブを聴きに?海とか観光でなく?それはまたディープな(笑)

ライブが主。次の日、もし時間があれば観光に行こうかな~みたいな(笑)。
当時、パソコン通信の「沖縄掲示板」に入っていて、ライブやイベントの情報をいろいろ教えてくれたのが、若狭道場のF原さんでした。
あ、東横道場のS崎さんもいましたよ。…なんて言っちゃっていいのかなあ。
 

――ええ、全然構いまセン(きっぱり)。

それで、那覇に新良幸人さんのライブを見に行った時にF原さんに会って、その後お稽古を見学させてもらい、盛長先生に初めてお会いしたんです。それが16,7年前でした。
 

―盛長先生もまだ30代半ば。もしかして今よりスマート?

・・・笑顔は今と変わらないです(笑)

 

実はかくれおとぼけキャラ?

 


―それにしても、「パソコン通信」とはこれまた懐かしい響きですね。
当時のパソコンって今のように一般的ではなかったというか、ハードル高かったでしょ。失礼ですが、HさんがそんなにITに強かったとは、意外でした。

大学時代の先生から卒業後も引き続きパソコンを教えてもらっていたんです。
インターネットが始まる前で、先生もメーリングリストの実験要員が必要だったんですね。

 

―話は変わりますが、好きな島唄は。

ずっと聴いていたのは「小浜節」や「月夜浜節」などの八重山民謡です。新良幸人さんの長年のファンだし、以前大島保克さんが東京在住の頃は、追っかけをしていました。

 

―2012年は琉球民謡音楽協会のコンクールに挑戦、「でんさ節」で新人賞に合格しました。

「でんさ節」は発表会やイベントで何度も歌っていて、そのノリで「みんなで受けようよ!おー!」みたいな感じで挑戦したんです。コンクールって全員が受けなければいけないものではなく、盛長先生も「受ければ勉強になるよ」とはおっしゃるけど、強制はなさいません。

…実は、コンクールを一度見学して、すっごく緊張してる人の姿も見ていた。だから、うかつに、というか気軽に受験してはいけないものだと思っていたんですよ。自分が勉強してよほど大丈夫!と思えるようになってからでないと受けちゃいけないと思っていたんです。
でも、東日本大震災があった。
出身は福島なのですが、あの地震で「やれる時にやっておかないと」という気持ちになりました。まあ、もう10年も習っているのだから、1度くらい受けてみてもいいかな、という気持ちもあったし。

 

―東横道場メンバーのなかでもキャリアは長い方ですものね。

でも、人前で歌うのはやっぱり緊張して大変でした。みんなで歌うのと違って、独唱は一音一音正確に歌わなければいけないし、勉強になりましたよ。

 

2010年の金城盛長三線教室合同発表会で。



 

【見学希望・入会についてのお問合せはメールでどうぞ!】 info34n@gmail.com

 

★ブログランキングに参加しました。よろしければ、ポチッとクリックお願いします。

 

 

 

 

 



沖縄民謡を1曲だけでも唄いたくて始めた三線。10年後には那覇の大ホールで独唱も―――J.Iさん

2013年05月09日 | メンバー紹介

メンバー紹介「わたしの三線生活」。
トップバッターはわが東京横浜三線道場の現幹事長、自称“姫”ことJ.Iさんです。


 

―じゃあ、よろしくお願いします。

えー、なに訊かれるんですか。こわいな~。変なこと書かないでくださいよ。

 

―マジメかつ誠実な管理人ですからだいじょうぶですよ。えーと、Jさんは、三線もですが、ダイビングも相当なキャリアですよね。

2001年9月からダイビングを始めて、沖縄によく行ってました。座間味とか久米島とか。潜った回数?300本以上はもう数えてないのですけど、ダイビングも三線もまだまだです。

 

ウミガメに出会った想い出の1枚。


―いやいや…(笑)。で、三線との出会いは?

ダイビングの旅行中に行った沖縄のカラオケで、沖縄民謡を唄っている女性がいて、その唄が素敵だったんです。何という曲かも知らなかったんですけど、かっこいい!と。私も何か1曲だけでも覚えて、次回このカラオケで歌おう!と職場近くの沖縄料理店でやっていた島唄三線同好会に行きはじめたのがきっかけです。

 

―目標はカラオケだった(笑)

そう、自分で三線を弾くなんてことは全然頭になかったんですよ。唄だけ唄えればいいと思っていたら、三線を手渡されて「今でしょ!」と。

 

―そうですか(スルー)。 で、初めての三線、どうでした?

弦は3本だし、押さえるところも少ないから、「楽しいじゃん♪」って思いました。

 

―3本だから楽…www(管理人は目下七と五と中と老のツボに悩み中)

で、だんだん三線が楽しくなって。最初は三線を持っていなかったので、パールのネックレスの箱をさおに見立てて指の練習をしたりして。で、そのサークルに三線を納品していた金城盛長先生に三線を作っていただき、基本から本格的に指導していただける東京横浜三線道場に入門しました。

 

―普段の練習はどのようにやっていますか?

だいたいは次のお稽古の予習とか、イベントで演奏する曲を練習していますね。そうでない時は「この曲を次回までに覚えよう」と決めてやっています。職場で終業後に控え室でやっているのですが、三線を持つと時間があっという間に経ってしまい、気がつくと建物の電気が消され、事務所が閉まってしまっている時もあります。

 

―好きな島唄を教えてください。

「与那国ションカネ」です(きっぱり)。那覇の若狭三線道場のお稽古に参加させてもらって初めて聴き、いつか唄えるようになりたいと、今も練習しています。

 

―Jさんは2010年に琉球民謡音楽協会の三線コンクールでこの曲で大賞を受賞。同年の同協会第10回芸能祭では那覇市民会館大ホールで1000人のお客様の前で独唱しました。誰もが目標にしたい輝かしい実績なのに、「いつか」ってww

ああ、あのときは妙な昂揚感があって、悲しい唄なのに自分に酔って楽しく唄ってしまいましたね(笑)。でも、唄っていても、唄い切れていないと今でも思います。自分のものになっていないというか、唄いこなせていないんですよ。

 琉球民謡音楽協会「第十回芸能祭」での独唱シーン


―なるほど、「唄う」ことと「唄いこなす」ことは別ですか…メモメモ。では最後に、東京横浜三線道場の良さを教えてください。

いろいろありますが、いちばんは師匠と一緒に色々な地域に行けることですね。現地の道場のイベントのお手伝いをして勉強させてもらいつつ、おいしいものを食べたり、観光したりと楽しいです。あとは、やはり目標を持って稽古に励めるということですね。

2011年11月札幌にて。金城盛長先生、大阪道場のメンバーと。

 

道場の仲間と参加した沖縄料理教室。無事に沖縄そばが出来て狂喜



―次の目標は?

そんなぁ、言えるワケないじゃないですか。ナイショですよ、もうっ。(強制終了)

 

【見学希望・入会についてのお問合せはメールでどうぞ!】 info34n@gmail.com

★ブログランキングに参加しました。よろしければ、ポチッとクリックお願いします。

 

 


会員インタビュー「わたしの三線生活」始めます!

2013年05月07日 | メンバー紹介

新コーナーが始まります

東京横浜三線道場のメンバーを紹介するインタビューコーナー、

「わたしの三線生活」、通称「わたさん」

をスタートします。

三線との出会いは十人十色。楽しみ方もそれぞれです。
なぜ三線にハマったのかをするどくレポート!

実態としては「わたしの三線生活」というより、「ヒストリーオブ三線」なのですが、
これだと略称が「ひさん(=悲惨)」になってしまうので、「わたさん」にしました。
「どっちにしろダサい」という批判はまったく無視して、まもなくアップします。どうぞご高覧いただけますよう。

 

管理人あぶ

 

★ブログランキングに参加しました。よろしければ、ポチッとクリックお願いします。