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支流からの眺め

武漢コロナウイルスとの戦争-これは戦争か災害か次の戦争か

 武漢ウイルスとの戦争とは、ウイルスとヒトの間の戦争という意味である。しかし、ウイルスの発生は自然現象なのであるから、流行そのものは自然災害である(ウイルスが人為的に散布されたという話しは棚上げ)。地震、水害、噴火など幾多の自然災害から、我々は復興を遂げてきた。ならば、この災害も同じような方法で乗り越えられるはずである。

 しかし、武漢ウイルス災害は今までの自然災害と勝手が違う。地震や水害は、短時間に特定の地域で災害が発生し、被災地外の人々が支援に駆けつけてくれる。これに対し、武漢ウイルス災害は既に長期化し、被災地は全世界に広がり、支援に来ることもできない。しかも、ウイルスは人を経由して流行するので、隣人や救援者が災害の種になりえる。今までの災害と異なり、人間同士で協力体制を組みにくい。

 武漢ウイルスとの戦争で人がとる作戦は、医薬品の開発、人工呼吸器による治療、個々人の感染防御、封鎖による接触回避などである。しかし、未だ征することは叶わず、人々は恐れ、苦悶している。死や病苦を恐れ、感染しているかもしれない隣人を恐れ、封鎖による経済的破綻を恐れ、そして、それらの恐れからいかに逃れるかを悩み続けている。片やウイルスは、恐怖も悩みも一切なく、ヒト細胞を攻撃し続ける。人にとってこの戦争は、ウイルスに対する戦いだけでない。内なる敵である恐怖との戦い、心理戦でもある。

 恐怖との戦いはどうなるのか。恐怖と煩悶のなか、犠牲を払っても勝機が見えないと、人々の心は変わり始める。焦燥と不安にかられ、憎悪や嫉妬が浮き上がり、怒りとなって噴き出す。苛立ちのはけ口とされるのは、反撃できない弱者である。朋友たる隣人も、あなたを感染者かもしれないと忌避する。味方であるはずの医療者や社会の指導者も、戦果が上がらなければ、怒りと攻撃の対象にされる。犠牲を払わない者がいれば、人格否定の標的にする。そして、今まで密かに反感を抱いていた相手に対して、この時とばかり封じ込めていた敵意を露わにする。怒りの種は拡散し、僅かの刺激で暴走する。マスメディアはそれを煽る。

 ウイルスとの戦争に際して次々と課題が現れ、既に思考力は飽和している。そこに怒りが加われば、脳は冷静に考える余裕を失う。思考停止が蔓延し焦燥感が漂う社会では、公徳心が失われ、悪事や犯罪行為が誘発される。権力の暴走を抑えることができず、為政者の背信・逸脱行為が行われる。この荒廃がさらに拡大し深化すると、政権の転覆、独裁政権の容認、他国への軍事的侵攻もおこりえる。

 これは決して絵空事ではない。20世紀初頭の大恐慌で荒んだ土壌から、国民から全幅の支持を得てナチスが生まれ、ユダヤ人を徹底的に敵視し、世界を大戦に巻き込んだのである。

 感染症の流行は災害であるが、この災害が招く恐怖は人々を分断し、扱いを誤れば人間同士の戦争に変質しかねない。

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