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支流からの眺め

再び熊野を訪れたー見どころ案内

 その不可思議さに惹かれて、熊野を再訪。奈良から日本最長(160キロ余り)の路線バスで新宮に抜けた(0915大和八木駅発、1415和歌山県入り、1555新宮駅着)。バスは五条から国道168号線を辿り紀伊山地に入る。このバスは十津川村の重要な公共交通で、里々をつなぐ旧道を基本として新道も走るという形で進む。だから時間はかかる。しかし、外の風景は見飽きることはない。


 十津川村の面積は日本一(672平米キロ)で、東京23区より広い。明治22年の大水害で甚大な被害を受け(熊野大社も流された)、2千人以上が北海道に移住した(新十津川村)。今の人口は約2700人だ。壬申の乱では天武側に、南北朝では南朝側に与し(楠木正勝の墓や長慶天皇を祀る神社がある)、幕末は天誅組に加わるなど尊王を伝統とした。天武朝から幕末まで免租特権があったのも驚きだ。


 新宮では神倉神社へ。頼朝が寄進した石段が半端ない。鳥居から見上げると思わず尻込みする。五百段余りを這い上がり丸い巨岩(ゴトビキ岩)を拝す。他には、浮島や蓬莱山という奇異な植生の森、紀伊徳川の陪臣水野氏の居城(丹鶴城)、秦の時代に訪れた徐福の遺跡が興味深い。徐福の顕彰碑の一節「人民が虐げられた時、その魔手を逃れ・・東海の仙人の住む島へ・・」は、現代にも符合する。


 次は古座川の一枚岩だ。神々しい。他にも古座川の清流に映えて巨岩が聳える(天柱岩、飯盛岩、少女峰)。約1500万年前に熊野カルデラが発生、史上最大規模の破局噴火となった(地球の気温が10℃以上低下し大量絶滅を生じた)。その火砕岩が浸食に耐え、古座川弧状岩脈となり今に至る。新宮や熊野・尾鷲の奇岩も起源は同じだ。同時期の火山活動で室戸岬、足摺岬、潮岬などが形成された。

 紀伊大島の東端に向かう。明治23年のオスマン帝国エルトゥールル号の海難現場だ。献身的な救助活動は今日の日土関係に貢献している(乗員650名余りのうち69名を救命)。弱体化したオスマン帝国と新興弱小国日本には共鳴する所があったようだ。昭和12年には遭難者の埋葬地に壮大な慰霊碑(国旗に注目)が建てられた。日本赤十字社の平時国際活動発祥の記念碑もある。(続く)


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