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支流からの眺め

日本神話(2)天武天皇

 記紀の作成を命じたのは天武天皇(大海人皇子)だ。40歳を過ぎた頃の673年に即位し(誕生年は不詳)、681年に編纂を指示、5年後に崩御した。記紀はその3-40年後の元明、元正の御代に撰上された。記紀の編纂を発意した人物である天武とその当時の情勢を確認する。

 飛鳥時代には、仏教と皇位を巡り蘇我氏と物部氏が長く対立していた。これが、物部氏の敗退で終結した(587年、丁未の乱)。その後は蘇我氏が強者となり、馬子は在位中の崇峻天皇を殺害した(592年)。その後の約30年間は、女帝推古天皇(33代)と摂政聖徳太子の体制で安定し、舒明天皇も十数年を治めた。

 皇極天皇(35代、舒明の皇后)の御代となると、蘇我氏は次期天皇と目された太子の子(山背大兄王)一族を滅ぼした(643年)。これに対し、舒明の皇子である中大兄皇子が蘇我入鹿を殺し(乙巳の変、645年)、その後の孝徳、斉明の御代も実権を握って政敵を排除して、661年に天智天皇(38代)を称制した。

 当時の朝鮮半島では百済が危機にあり、天智は数万の援軍を派遣した。しかし、白村江の戦いで唐軍に大敗し(663年)、国防の強化と近江遷都に迫られた。この混乱の中に天智は崩御し、皇位継承を争う古代最大の内乱(壬申の乱、672年)が起こった。これに勝利した大海人皇子が天武天皇(40代)に即位した。

 天武から見ると、父(舒明)、母(皇極=斉明)、兄(天智)、母方の叔父(孝徳)が天皇だ。この間、蘇我氏による皇統の簒奪の危機に晒され、皇族間の骨肉の争いが続いた。それらを征して皇位についた訳だ。この先も他の豪族の反乱や皇族内の内紛が危惧される。更に唐や新羅による侵略の脅威もある。

 これに対し、天武は要職を皇族で固め、広く国の統治制度に抜本的な改革を敢行した。即ち、人民や土地を氏族ではなく天皇の帰属とし、税制や冠位制度を整備し、アマテラスを神道の最高神として祭祀を天皇に集中させた。一方で、土着の文化を尊重し、仏教を篤く保護し、唐と交流を断ち新羅とは和解した。

 こうして天武は、在位は十数年とそう長くはないが、日本の国体を確立させた(日本や天皇の呼称、式年遷宮、新嘗祭なども始めた)。ここから神話の目的も見えてくる。その目的とは、①皇統の正統性の確立、②日本国の独立性の明示、及び③壬申の乱の正当化だ。特に①が重要だろう。(続く)

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