飛鳥時代には、仏教と皇位を巡り蘇我氏と物部氏が長く対立していた。これが、物部氏の敗退で終結した(587年、丁未の乱)。その後は蘇我氏が強者となり、馬子は在位中の崇峻天皇を殺害した(592年)。その後の約30年間は、女帝推古天皇(33代)と摂政聖徳太子の体制で安定し、舒明天皇も十数年を治めた。
皇極天皇(35代、舒明の皇后)の御代となると、蘇我氏は次期天皇と目された太子の子(山背大兄王)一族を滅ぼした(643年)。これに対し、舒明の皇子である中大兄皇子が蘇我入鹿を殺し(乙巳の変、645年)、その後の孝徳、斉明の御代も実権を握って政敵を排除し、661年に天智天皇(38代)を称制した。
当時の朝鮮半島では百済が危機にあり、天智は数万の援軍を派遣した。しかし、白村江の戦いで唐軍に大敗し(663年)、国防の強化と近江遷都に迫られた。この混乱の中に天智は崩御し、皇位継承を争う古代最大の内乱(壬申の乱、672年)が起こった。これに勝利した大海人皇子が天武天皇(40代)に即位した。
天武から見ると、父(舒明)、母(皇極=斉明)、兄(天智)、母方の叔父(孝徳)が天皇だ。この間、蘇我氏による皇統の簒奪の危機に晒され、皇族間の骨肉の争いが続いた。それらを征して皇位についた訳だ。この先も他の豪族の反乱や皇族内の内紛が危惧される。更に唐や新羅による侵略の脅威もある。
これに対し、天武は要職を皇族で固め、広く国の統治制度に抜本的な改革を敢行した。即ち、人民や土地を氏族ではなく天皇の帰属とし、税制や冠位制度を整備し、アマテラスを神道の最高神として祭祀を天皇に集中させた。一方で、土着の文化を尊重し、仏教を篤く保護し、唐と交流を断ち新羅とは和解した。
こうして天武は、在位は十数年とそう長くはないが、日本の国体を確立させた(日本や天皇の呼称、式年遷宮、新嘗祭なども始めた)。ここから神話の目的も見えてくる。その目的とは、①皇統の正統性の確立、②日本国の独立性の明示、及び③壬申の乱の正当化だ。特に①が重要だろう。(続く)