統一教会を考えていくと、宗教を考えることになる。世界の信徒数は、キリスト教が3割、イスラム教が2割、ヒンズー教が1割、仏教が5分で、その他の民族宗教(ユダヤ教や神道もここに入る)が2割強、残りの1割強が無宗教とされる。日本には宗教法人が18万余りあり(神道系と仏教系が各半分近く)、信者は合計1.8億人にもなるが、多くの日本人は自称「無宗教」である。尤も、自称無宗教でも、外国人向けには神道か仏教を信じるとしておくのが無難である。
神道は、縄文時代より続くアニミズム的な民族宗教で、日本で最も根付いた宗教であろう。神道では、自然現象、祖霊、土地や一族の神、実在する人や物など多様な霊魂(八百万神)を祀る。神社で頭を下げて手を合わせる、お賽銭を上げて願い事や厄除けを祈る、地鎮祭・初詣・七五三・祭礼等の行事を行う、これらに縁のない人はいまい。開祖や経典はなく体裁は不十分かもしれないが、ご神体への畏敬や儀式、罪穢れを払う清浄観や道徳観は宗教の名に値する。
但し、神道が民族宗教の枠を越えた時代もあった。明治政府は、(祭政一致にならないように)神道を宗教ではないとし、国家の宗祀として神道を位置づけた。この国家神道は、天皇現人神や神国思想と結びつき、武力行使の正当化(聖戦)や天皇への忠節の美化(英霊)など、軍国主義を支えるカルト的教義に変態した。戦後にはGHQがこれを危険思想とし、神道指令により神道を行政から分離した。天皇の神格は否定され、宮中祭祀は天皇の私的行為となった。
仏教は飛鳥時代に伝来し、奈良時代の国家鎮護の南都六宗、平安時代の修行や加持祈祷を重んじる天台宗と真言宗、鎌倉時代の末法から救済を求める浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、自己修練を極める禅宗などが興った。武力集団化したこともあったが、江戸時代には寺請制度と葬祭様式で世俗に同化した。現在でも156宗派が存在し、その教義や様式は日本人の思想に影響し続けている。創価学会や立正佼成会は仏教的な宗教であり、オウム真理教も仏教風に始まった。
キリスト教は戦国時代に伝来し、禁教期間を挟んで、維新と戦後に再流入した。しかし、信者数は限られている。絶対的な創造主たる神、原罪を背負った人間、信仰者以外は地獄に落ちる運命、これらの教義に違和感があるのだろう。統一教会では、共産主義や日本を悪とし、反共と侮日に基づく行動を救いの道とする。煩悩を悪とし解脱や仏への帰依を救いとする仏教も、一部の宗派では非信仰者が地獄に落ちる。このような強い教義には、日本人は抵抗があるらしい。
こう見ると、日本の宗教は、八百万の神を祀る神道を基盤とし、仏教・道教・キリスト教・儒教などの挑戦や影響を受けながら、それらと習合してきた。特定の宗派(例えば一向宗)が強大になる、神道が軍国主義のカルト的教義と化すこともあったが、それらの過激思想は馴化され、自称無宗教(行動は神道的)が支配的である。恐らく、神道に永く慣れ親しんだことと、その自然観や世界観が調和的で苛酷でないことが、広く受け入れられている理由であろう。
宗教が必要なのは、人々が現世の苦(典型的には孤立や死)からの救いを求める故である。信者となれば、教義や戒律を共にする仲間との一体感が得られ、死に意味を見いだす。日本人も苦からの救いを求めるが、多くの場合、神道の提供する癒し効果(祖先や自然への崇拝、行事や儀礼の参加)でも救われるのであろう。宗教団体以外の共同体が心を支えている、復讐念慮が淡泊で後を引かない、幸いに与えられた試練がそれほど酷くない、ということかもしれない。
一方、日本人にも苦しみが癒されない人はいる。その人達には、超越的な存在を信じ込み、何かを悪に仕立て、身を挺して悪を攻撃する教義は心に刺さる。オウム真理教や統一教会の唱えたカルト的教義も、これであった。戦前の天皇崇拝と鬼畜米英も、同根であろう。強い宗教教義は、このカルト的教義に対してワクチン効果を有する。対して、日本的無宗教は免疫が弱い。これを機会に、カルトの怖さを家族や共同体の中で語り伝えるべきである(学校では教えにくい)。