これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

広島の原爆ドームの碑文「過ちは繰返しませぬから」に見る奴隷根性

2013-08-13 | 安全保障

          広島死没者慰霊碑

     

碑文の由来 
 
 
財団法人広島平和文化センター「ヒロシマ読本」(45、46頁)の記事から、

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 慰霊碑は、ここに眠る人々の霊を、雨露から守りたいという気持ちから、埴輪の家型に設計されました。埴輪の家には、中央に原爆死没者名簿を入れた石棺が置かれています。 

 石棺の正面には、「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と、きざまれていいます。
この碑文について、当時の浜井市長は、「諸霊の冥福を祈ることは、すべての人の一致した気持ちであったが、それを誓いの言葉に結びつけるのに困った」と述べていますが、浜井市長は、いろいろと考えあぐねて、「なんとか考えつかないか」と、藤本千万太秘書係長に言葉を洩らしました。

 係長は、碑文の古典研究に造詣の深い恩師の雑賀忠義広大教授を思いだし、早速、教授を訪ねた。藤本係長は、市長の考えを教授に説明し、2時間ばかり話して帰りました。
 その翌日、教授は浜井市長を訪ねて来て、毛筆でタテ書きした文案を示しました。文案は、「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」とあり、もはや一字一句も動かすことができない確たる境地を示すものでした。市長は即決するとともに、碑にきざむための揮ごうも依頼したのでした。 

 揮ごうができると、市長は喜びを隠しきれず、市政記者室に持って行って見せました。
共感した記者たちは一せいに拍手しました。
原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られるということに、まったく異論の余地はありませんでした。この犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならぬという認識でした。 

 しかし、「碑文が完成してみると、浜井市長の意図がすべての人に円滑に受け入れられるというわけにはいかず、賛否両論がわきました。」  

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             1930年頃の軍都広島 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Hiroshima_map_circa_1930.PNG
  


東京帝大卒のエリートが
  軍都で国策推進に邁進 
 
浜井信三が「この犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならぬという認識でした。」というのであるならば、それがはっきり分る碑文にすべきではないか。「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」という文言には、主語が無い。

 「反核の平和を誓うのは、全世界の人々」であると受け止める日本人はどれほどいるのだろうか。碑文に対する批判が絶えないため無理な屁理屈を考えたと見られてもおかしくない。 

 しかし、「碑文が完成してみると、浜井市長の意図がすべての人に円滑に受け入れられるというわけにはいかず、賛否両論がわきました。」と記事にあるが、碑文を見た瞬間、原爆を落とされた側が詫びなければならないのかと、私も嫌な気分になった。  

 この点について考えてみる。戦争前の広島市は戦時体制下の軍事都市であった。  
広島市は、第二次世界大戦以前には軍事都市であった。明治時代に入ると、陸海軍の拠点が集中する軍事都市となり、特に日清戦争時には広島大本営が置かれて明治天皇が行在し、第7回帝国議会は広島市で開かれるなど、臨時の首都機能を担った。 

 これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第5師団司令部、広島駅西に第2総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200mに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部は兵站上の重要な拠点であった。

 浜井信三は1931年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。この頃の日本は、“軍国日本”であった。 
  1931年9月18日、満州事変勃発、
  1932年1月28日上海事変勃発、
  1932年3月1日満州国建国、
     同3月15日、5.15事件が起こった。
  1932年9月15日、日本は満州国を承認、日満議定書を調印した。  


  1932年9月、浜井信三は広島商工会議所に入った。 
  1933年3月27日、日本、国際連盟脱退。
  1933年10月にドイツが国際連盟脱退。
  1934年8月12日、永田軍務局長斬殺事件発生、
  1934年12月29日、日本政府、ワシントン海軍軍縮条約破棄を通告。
  1933年、1934年になると、日本はドイツと連携し世界を相手に対立を深めつつあった。  


 そして1935年、浜井信三は広島市役所に入った。

 更に、戦雲急を告げる戦時体制下、浜井信三はエリート官僚として軍事都市・広島で国策遂行に邁進していた。大陸の戦線は拡大しつつあった。 

 1937年7月7日、盧溝橋事件(北支事変)、同8月14日、上海事変(第二次)勃発。
 1937年11月6日、日独防共協定締結、
 同12月13日日本軍、南京占領。

 大陸の戦線は拡大し、米英蘭等との対立が激化し1941年12月8か、日米英開戦に至った。
 1944年11月18日、広島市で第一次建物疎開が実施、以後、原爆投下まで計6回実施された。

 1945年(昭和20年)4月3日、広島市で学童疎開が開始され、6月、廣島文理科大学内に中国地方総監府が設置された。

 1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により、広島市大河町(現・南区)の自宅にて被爆した。当時の役職は配給課長であった。
 銃後の守りを一身で担っていたと言っても過言ではない。 


 当然のことであるが、原爆投下に対して日本政府は1945年8月10日、スイス政府を通じて下記の抗議文を米国政府に提出した。

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 (抗議文)
  本月六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり広島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず、

 本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知してをるところなり、

 また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、 

 抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり、

 米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、

 米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、 

 而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す 
                       朝日新聞(1945年8月11日) 
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敗戦を契機に正反対の生き方を選んだ 
 
アメリカ軍の戦略爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」が広島市中心部の相生橋上空に原子爆弾「リトルボーイ」が投下し、きのこ雲が立ち上り、市街地を一瞬にして破壊した。
 投下当日中に数万人、1945年末までに推計13万人の人命が奪われ、原爆投下後は一時的に人口が20パーセント減少した。 
 生存者も火傷痕(ケロイド)、放射線後遺症、精神的後遺症(PTSD等)、遺伝への不安に生涯苦しむなど、市民が経験した苦痛は人類史上類を見ない非人道的な戦争犯罪であった。

 浜井信三は1945年12月、第2助役に就任した。日本が鬼畜米英を相手に戦争していた時代、浜井信三はどのような生き方をしていたのだろうか。原爆投下に対し日本政府は米国に対し「市民が経験した苦痛は人類史上類を見ない非人道的な戦争犯罪であった。」と抗議した。

「瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり広島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず」であるにもかかわらず、
 浜井信三は米国に抗議した事があったのか。

 抗議ができないなら、公職から去るべきである。新たに君臨した“お上”、強い権力者(米国)に擦り寄って生きることを選び、米国に迎合する道を選んだのか! 

 1947年4月、公職選挙による最初の広島市長となり、同年8月6日に第1回広島平和祭と慰霊祭をおこない、平和宣言を発表した。
 この時はGHQによる占領統治時代であったため、いかに検閲で平和への思いが消されないようにするかに苦労したというが、式典には、当時の片山哲首相、占領軍総司令官のマッカーサー元帥が異例のメッセージを寄せた。

  これは、米国に媚び諂い迎合し、米国の占領政策に合致した式典であったなによりの証拠である。

 「ヒロシマ読本」に「『安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから』 とあり、もはや一字一句も動かすことができない確たる境地を示すものでした。市長は即決するとともに、碑にきざむための揮ごうも依頼したのでした。」とあるが、碑文は浜井信三の自責の念なのであろうが、主語が無い。 自己の責任をぼかすには都合がいい。

 彼は原爆投下前は軍部と一体となって“鬼畜米英撃滅!”のスローガンの下、国策遂行に邁進したはずである。
 自分の生き様が間違っていたと考えたのであれば、「安らかに眠って下さい 私(浜井信三は)過ちは繰返しませぬから」とすべきである。

 それが世渡り上手の人間に相応しい生き方だ。

 敗戦を境に、“お上”(米国)に仕えるため“好い子”になることなど屁にも感じない人物が、奇麗事を唱えても良心的な人は違和感を持つ。私も嫌な気持ちになった。「碑文が完成してみると、浜井市長の意図がすべての人に円滑に受け入れられるというわけにはいかず、賛否両論がわきました。」、当たり前である。

 彼・浜井信三は東大卒のエリート官僚として軍部と一体となって米英と戦った。敗戦で世の中の状況が180度転換するや、見事に180度転向して生きた。日本人としての矜持はどこにあるのか。

長いものに巻かれる卑屈な体質  
 
R・B・パル博士の批判

 「ヒロシマ読本」(45頁)の記事から、 
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 昭和27年11月、本川小学校で開催された世界連邦アジア会議に出席したインドの代表R・B・パル博士は、慰霊碑に参拝して、「この碑文に『過ちは繰返しませぬから』とあるのは、むろん日本をさしていることは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。
 ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明瞭である。落とした者の手は、まだ清められていない。この過ちとは、もしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は、西洋諾国が東洋侵略のために起こしたものであることも別瞭である。……」と、憤激した表情で語ったといいます。

 パル博士は極東国際軍事裁判で判事として、東條元首相ら全被告の無罪を主張した人ですが、博土の言葉に共鳴する人々も少なくありませんでした。
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 パル判事は「憤激した表情で語った」とあるが、事実は博士の指摘の通りではないか。
●まつってあるのは原爆犠牲者の霊である。
●原爆を落としたのは日本人でないことは明瞭である。
●落とした者の手は、まだ清められていない。
●この過ちとは、もしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない。
●その戦争の種は、西洋諾国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である。
●パル博士は極東国際軍事裁判で判事として、束条元首相ら全被告の無罪を主張した人です。

 その通りである。「東京裁判がおかしい、被告は無罪である」との主張に不満があるならば、日本人が自らの手で、軍人、政治家及び経済界の指導者の戦争責任を追及すべきであった。そのような正義感は「ヒロシマ読本」のどこにも見当たらない。 東條元首相ら全被告が戦争犯罪を犯したというならば、軍部と一体となって国策推進に明け暮れた浜井信三らエリート官僚は罪を問われないでいいのか。
 
    まつられているのは日本人である
        米国人ではない
    
  被災直後、この地一帯が爆心地であったため無数の遺体が運ばれ荼毘にふされた。
   土盛りの内部には、犠牲者約7万柱の遺骨が納められている。      


     過ちを犯したのは米国である 
   この写真を見た瞬間、 「アメリカのやろーよくもやったな」と怒りを覚えた。
   「過ちはくりかえしまえぬから」という気持ちにはならなかった。
 

  


      大田川に設けられた臨時救護所
      爆心地から1.1km 基町 1945年8月7日 川原四儀氏撮影    



  
       原爆投下目標となった相生橋 


 


    原爆投下前の産業奨励館




      溶けて固まった人骨と泥


                    
           以上、広島平和記念資料館の写真  


    
  中国軍管区司令部地下式通信室入り口跡  
 広島の原爆資料館に展示された数々居の遺品、写真やジオオラマや平和公園内の数々の慰霊碑等を見た者にとって、原爆死没者慰霊塔の碑文に記された「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」の文言は、“好い子”になって“お上”(米国)に仕えることに対する世渡り上手な浜井信三の自責の念の表れではないかというのが率直な感想である。 


被害者が、加害者に意見を求める卑屈さ 
 
「ヒロシマ読本」(47頁)の記事から、

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 雑賀教授は、この碑文を英訳するにあたって長男が留学している米国イリノイ大学に送って意見を求めたすえ決定しました。
 それは、Let a11 the sou1s here rest in peace; For we shall not repeat the evil.です。 


 すなわち、過ちを繰り返さないというのは「We」で、碑文の主語は、あきらかに碑の前にぬかずく「われわれは」です。人間であるわれわれのみんなが誓うべき言葉となっていて、原爆被災の惨禍を正視した心情が、宗教的なレベルに昇華した極至の表現と言えましょう。
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 原爆投下国の人間に碑文を云々してもらう必要はない。
日本語の碑文に誤解が生じないように主語を明記すればすむ。
自己の責任を曖昧にし、世渡りをするためには、主語を欠いた碑文のほうが都合がいい。
軍部と一体となって国策の遂行に邁進した自分が悪かったといえばいいのだ。

 「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」という言葉を、素直に「Let a11 the sou1s here rest in peace; For we shall not repeat the evil.」と素直に受け止める日本人がどれほどいるのだろうか。
 最初から、英文と同じような主旨の碑文にすべきである。
 碑文を批判されてから、米国人の意見を徴するとは、敗戦後、進駐してきた米兵に向って子供が「ヘーイ、チューインガム ギブミー」と言う体質と似通っている。 



 「ヒロシマ読本」(47頁)の記事から、

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 碑文について、雑賀教授は「二十世紀文明の犯した最大の過ちは、広島の原爆であった。過去に低迷している広島市民ではない。飛躍して人類のなし得なかった仕事をしようと光明を見い出す。過ちを繰り返さぬという決意は、長崎と共に広島がなし得る特権である。(中略)人類の光明は、広島のいっ角からとすれば、犠牲はむだではない」と、市の広報紙に一文を寄せて理念を述べていますが、碑文が、全人類の過去・現在・未来に通ずるものであって、個人にかかわるものではないということが埋解できるのです。

 この碑文の趣旨を正確に伝えるため、広島市は昭和58年11月3日に、日本文と英文の説明板2枚を慰霊碑に向かって左側に、平和の池の水面から浮かぶ形で設置しました。
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 「二十世紀文明の犯した最大の過ちは、広島の原爆であった。」が、これは、日本人が犯した誤りではない。侵したのは米国である。「過去に低迷している広島市民ではない」といって米国の犯罪に目を瞑っている。米国の占領政策、検閲などの迎合して生きてゆくための屁理屈に過ぎない。 

  このような卑屈な姿勢が伺われる「碑文の趣旨を正確に伝え」ることができなかった」のは当然である。そこで、左翼陣営の逡動が下火になりつつあったころになって、説明板を作り変える体たらくとなった。
 さすがにG8加盟国の政治家に見せられないと判断したのであろう、昭和58年11月3日に、以前の説明版に換えて日本文と英文の説明板2枚を設置した。

 時流に阿て生きる日本人の卑屈な体質をよく物語っている。

 日本語の説明文は次のとおりである。
 
       市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
         昭和27年(1952年)8月6日建立

    この碑は昭和20年(1945年)8月6日 世界最初の原子爆弾 
    によって壊滅した 広島市を平和都市として再建することを念 
    願して設立したものである 
    碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争 
    という過ちを再び繰り返さないことを誓う言菓である 過去の
    悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願 
    い 真の世界平刷の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻ま 
    れている 
    中央の石室には 原爆死没者名簿が納められており この碑 
    はまた原爆慰霊碑とも呼ばれている  
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

“お上”なら誰でもいい奴隷根性  
 日本人全員が、一目瞭然、理解可能な碑文を書けばいいだけのことである。この碑文は日本人の奴隷尾根性の発露である。
 明治維新以後、日本の指導者たちは、日本のおくれた資本主義を、世界の水準へ近づけようと努力した。彼らの努力は、一応、成功した。そして成功が、日本文化の構造と、日本人の心的傾向を決定した。

  明治時代以降、富国強兵の日本では、東京大学等帝大を出て官僚になるか、陸軍士官学校や海軍兵学校を出て軍人としての道を歩むのが選良の憧れであった。この官僚と軍隊の組織は、ピラミッド型の段階的組織構造を形成している。上には絶対服従、下には指導者として君臨し絶対的服従を求め、個々の官僚や軍人は、自らが指導者と奴隷の2役を担っている。
 個々の人物は階層の頂点へ向う動きをし、各階層から、ある瞬間にいずれ“指導者”になるであろう人物が飛び出してくるが、国民はもとより全ての官僚や全ての軍人の総意を代表として“指導者”の地位につくのではない。
 “お上”の評価で決まるのである。
 “お上”に上手く仕える者が立身出世をする世界であった。


 一高―帝大―高文という教育コースと、それに伴う日本的な立身出世の教育精神が、どこまでも縦に貫いている。
 そしてピラミッドの頂点で世界に比肩するのが、エリートらの個人的願望であり、国民的願望でもあった。これが指導者意識の発生する基盤だった。


 日本人は、指導されるか、指導されるのがいやなら自分が指導者になるよりほかに生きられなかった。指導者は同時に被指導者であり、被指導者は同時に指導者であるように、目に見えぬ糸で縦につながれている。
 中国、インド、ベトナムやインドネシアなど他国のように民衆の中から指導者が生まれてこなかった。 


 戦後の核廃絶運動にも、上記のような図式が見て取れる。左翼連中の大衆運動は“進歩的”とか“知識階級”という者が主導し、“劣った大衆”を指導するという図式である。大衆運動、反核、反安保、反米闘争等々、下から沸き起こった運動ではなかった。東大卒が党の委員長等指導層を形成する共産党が率いた原水爆禁止運動はその最たるものである。

 核兵器廃絶運動までが、国民の間から“否定”の運動としておこらないで、逆に左翼陣営が民衆を引きずる方向で、世界的水準へ近づける方向で、ピラミッドの頂点を伸ばすやり方で、一高―帝大の線から起こったのだ。  

 核廃絶の運動は、本来は“否定”の契機を含んでいるはずのものであったが、日本社会の構造のなかで、エリートが民衆を指導するという型どおりにゆがめられていった。つまり一高―帝大型の指導者型の考え方である。 

 日本には、ロシアや中国、その他の国々で見られた強烈な抵抗がなかった。抵抗が弱かったのは、歴史的に形成された日本人の奴隷根性に関係しているようである。

 碑文の「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」という願いは、安井信三という帝大型エリートの指導者意識、米国に対し “いい子”になりたがる日本的指導者心理の反映とも言える。つまりは奴隷根性の裏がえしである。
     
   「オバマジョリティ音頭」を作った 中国、韓国にべったりの前市長
    米国の核を主に批判しておきながらオバマの核戦略を理解せず
        「オバマジョリ
ティ音頭」を作るに至っては酔狂だ! 
    米国は「過ちは繰り返しませぬ」と詫びたことも核兵器をゼロにしたわけでもない。
    広島でオリンピックを開催したいとも言った愚か者。正義を唱える振る舞いが、
    はたして正義のあらわれなのか、抜け目のなさか、判断するのは難しい。


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